魁《おいらん》も禿《かむろ》も誰も来ない中に、ゆっくりと休みたいということであったから、これもその意に任せました。
 部屋の者を差図して、竜之助を介抱させた神尾主膳は、自分の部屋へ引返したが、浮かぬ面色であります。親の敵《かたき》呼ばわりをする者が来ていると言って、自分に不快の思いをさせた金助の告げ口といい、この場の急報といい、なんとなく不安の思いが満ちて、部屋へ帰っても四方《あたり》が白《しら》けてなりません。
 やむなく酒をあおりはじめました。多く酒を飲めば酒乱に落ちることを知っておりながら、なんとなしに酒を飲みたくなりました。
「白妙《しろたえ》も一座へ招いて、芸者を呼んで、もう一騒ぎしよう、そして今夜はほどよく切り上げて拙者は帰る」
 酒が進むと主膳は、陽気に一騒ぎしたくなりました。
 兵馬と東雲《しののめ》の第二局目の碁は、危ないところで兵馬が五目の勝ちとなりました。その時分に、
「白妙さんの部屋で心中」
という噂がここまで伝わって来る。
「心中? まあいやな」
と言って東雲は、眉をひそめました。
「心中ではございません、白妙さんのお客様が御急病なのでございます」
 そこへ新造が報告に来てくれたから、東雲の胸も鎮まりました。
「今度は勝負でございますね、もうお一手合《ひとてあわ》せ、お願い致しましょう」
 東雲は惜しいところで負けたのが、思いきれないようであります。
 兵馬は、それどころではない。碁のお相手は、もう御免を蒙りたいのであります。けれども東雲はいよいよ熱くなって、
「どうぞ、もう一石《いっせき》」
 東雲は、兵馬の心持も知らないで戦いを挑《いど》むから、兵馬も詮方《せんかた》なしに、
「今度は負ける」
 やむを得ず、碁笥《ごけ》の蓋を取りました。
 この時に、万字楼の表通りが遽《にわか》に噪《さわ》がしい人声であります。第三局の碁を打ちはじめようとした兵馬も、東雲も、新造も、その噪がしいので驚きました。新造が立って表の障子を細目にあけて、楼上から見下ろしてハタと締め切り、
「茶袋が参りましたよ、茶袋が」
「おや、歩兵さんがおいでになったの、まあ悪い時に」
と言って、東雲の美しい眉根に再び雲がかかりました。
「茶袋とは何だ」
 兵馬が新造にたずねると、
「歩兵さんのことでございます」
「ああ、このごろ公儀で募った歩兵のことか、あの仲間には乱暴者が
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