うことを訝《いぶか》るもののようでありました。
「言ってしまいましょう、わたしは、たった今、米友さんに逢いましたよ」
「あの友さんに?」
「はい」
「どこで」
「ついそこで。この家のすぐ前の井戸のところに立っていました」
「あの人が、ここを訪ねて来ましたか。どうして、わたしのいることがわかったのでしょう。それでもよかった」
お君はホッと安心したように息をつきました。それでもよかったというのは、米友が自分を訪ねてここへ来てくれたものと信じているらしいのを、お松は寧ろ気の毒がるように、
「でも、ほんとうに、米友さんだか、どうだか知れませんけれど、わたしが見た目では全く、あの人に違いがありませんでした」
「では、あなたがお取次をして下すったのではないのでございますか、わたしを訪ねてあの人が来てくれたというわけではないのですか」
「どういうつもりですか、さっぱりわかりません、わたしがそれと気がついた時には、もうあの人は井戸側から見えなくなってしまったのでございますもの」
「それで、お前様に、なんとも言わずに行ってしまったのでございますか」
「わたしの方では、たしかに米友さんに違いないと思いましたけれど、向うでは、わたしの姿さえ見ないであちらを向いていました、はっと思う間にどこへ行ってしまったか、言葉をかける隙《ひま》もありませんでした」
「まあ、どうしたのでしょう」
「ほんとに、わたしも訝《おか》しいと思いましたから、もし何かの見損ないではないかと、あとで外へ出て近所の人に尋ねてみますと、いよいよ米友さんに違いないようでございますから、どうも合点がゆきませんの」
「あの人は、少し気象が変っているから、何か気に入らないことがあって行ってしまったのか知ら、もしや、他人の空似《そらに》というものではないかしら」
お君は打消してみたけれど、どうも打消し難い疑いが深くなります。
お君がこの家に預けられているということは、初めのうちは、出入りの人々は誰も知りませんでした。しかし、ここに永く食客のようになっている人々の間には、自然にそれが知れないでいるはずはありません。それらの人々の間にお君のことが問題となって、それとなく用事をかこつけてはお君を垣間見《かいまみ》ようとするようになりました。
食客とは言いながら、これらの連中は皆よき意味での一癖ある連中でしたから、そんなに無作法な振舞はしません。けれども二人三人|面《かお》を合せると、この話に落ちて行くのは争い難いものであります。いったい、あれは何者であろうということが問題の中心でありました。
老女の娘であろうというもの、それはまるきり型が違う、老女の娘でもなければ身寄りの者でもない、しかるべき身分の者の持物であったのを、仔細あって預かっているのだろうということは、誰も一致する見当でありました。
或る日、ここへ二三人づれの浪士体の者がやって来ました。そのなかには、曾《かつ》て甲府の獄中にいた南条と五十嵐との二人の姿を見ることができます。
「ああ、南条が知っている、あの男を責めてみるとわかるだろう」
それで集まった人々が、
「南条君、君に聞いたらわかるだろうと衆議一決じゃ、あの女は、ありゃいったい何者だ」
座中の一人が問いかけました。南条はワザと怖い目をして、
「知らん、拙者は女のことなぞは一向に知っておらん」
と首を振りました。
「そりゃ嘘じゃ、君はたしかに知っている、君が連れて来て老女殿に預けたものと、一同が認定している」
「詰らん認定をしたものじゃ」
「そう言わずに白状したがよろしい、情状はかなりに酌量してやる」
「白状するもせんもない、どこにどんな女がどうしてござるか、拙者共は一向に不案内、おのおのから承りたいくらいじゃ」
「こいつ、一筋縄ではいかぬ、拷問《ごうもん》にかけろ」
「たとえ拷問にかけられても知らぬ、存ぜぬ」
こんなことを言って彼等は大きな声で笑いました。大きな声で笑ったけれど、更に要領を得ることではありませんでした。しかし、一座の者は、これは確かに、南条が知っていながらしらを切るのだろうと認定をしていることは動かせないのであり、ほかのことと違って、こういうことを知っていながら知らない風をするのは罪が深いと、一座の者が南条を憎みました。よし、それならば我々の手で直接に突留めて、南条の鼻を明かしてやろうと意気込むものもありました。
「なにも、そうムキになって拙者を責めるには及ぶまい、お望みがあるならば、本人に向って直接《じか》に打突《ぶっつ》かってみるがよろしい、主《ぬし》のあるものならばやむを得んが、主のない者ならば諸君の器量次第である、もしまた将を射んとして馬を覘《ねら》うの筆法に出でんと思うならば、拙者より先に老女殿を口説《くど》き落すが奥の手じゃ」
南条は多数に憎まれながら、こう言って見得《みえ》を切りました。
「ともかくも、ああして置くのは惜しいものじゃ」
こうして、お君のことがこの家に集まる若い浪士たちの噂に上ってゆきました。
しかし、それだけでは納まることができなくなった時分に、これらの連中のなかでも剽軽《ひょうきん》な一人が犠牲となって――この男ならば、たとえ言い損ねても老女から叱られる分量が少ないだろうと、総てから推薦された一人が、ある時、老女に向って思い切ってそれを尋ねてみました。
「時に、つかぬことをお聞き申すようだが、あの奥にござるあの若い婦人は、あれはいったい主のある婦人でござるか、但しは主のない婦人でござるか……」
額の汗を拭きながらこういうと、老女は果して、厳《いか》めしい面《かお》をして黙ってその男の面を見つめておりました。
せっかく切り出したけれども、こう老女に黙って面を見られると、二の句が継ぎ難く、しどろもどろであります。
「それがどうしたというのでございます」
老女は意地悪く突っ込みました。
「それがその、僕が一同を代表して……」
一同を代表してはよけいなことであります。せっかく自分が犠牲者として一同から推薦され、自分もまた甘んじて犠牲になる覚悟で切り出しておきながら、老女に炙《あぶ》られて脆《もろ》くも毒を吐いてしまって、罪を一同へ塗りつけたのは甚だみにくい態度でありました。
「一同とはどなたでございます」
「一同とは拙者一同」
「何でございます、それは」
苦しがってその男は、脂汗《あぶらあせ》をジリジリと流しました。
「その一同によくそうおっしゃい、女房が御所望ならば、三千石の身分になってからのこと」
「なるほど」
なるほどといったのは何の意味であったか自分もわからずに、恐れ入ってその男は退却して、一同のところへ逃げ込みました。
いわゆる、一同の連中は、逃げ返ったその男を捉まえてさんざんに小突き廻しました。
一同を代表してというのは武士としていかにも腑甲斐ない言い分であるというので、詰腹《つめばら》を切らせる代りに、自腹《じばら》を切って茶菓子を奢《おご》らせられ、その上、自分がその使に行かねばならなくなりました。
しかし一方にはまた、老女の言い分に対して、不満を懐《いだ》くものもないではありません。女房が所望ならば、三千石の身分になってからというのは、我々に対して聞えぬ一言であるという者もあります。老女の言葉の裏には、我々を三千石以下と見ているものらしい。不肖《ふしょう》ながら我々、未来の大望《たいもう》を抱いて国を去って奔走する目的は、三千や一万のところにあるのではない。それを承知で我々を世話して置くはずの老女の口から、なれるものなら三千石になってみろと言わぬばかりの言い分は、心外であると論ずる者もありました。
「ナニ、そういうつもりで老女殿が三千石と言ったのではあるまい、何か他に意味があることであろう」
と言いなだめる者もありました。
三千石の意味の不徹底であったところから議論が沸騰して、それからお君のことを呼ぶのに三千石の美人と呼ぶように、この一座で誰が呼びはじめたともなく、そういうことになりました。
三千石の美人。こうして半ば無邪気な閑話の材料となっている間はよいけれど、もし、これらの血の気の多い者共のうちに、真剣に思いをかける者が出来たら危険でないこともあるまい。老女の睨《にら》みが利いていて、食客連が相当の体面を重んじている間はよいけれど、それを蹂躙《じゅうりん》して悔いないほどの無法者が現われた時は、やはり危険でないという限りはありますまい。
それから二三日して、お松は暇をもらって、相当の土産物などを調《ととの》えたりなどして、長者町に道庵先生を訪れました。
その時分には、先日の手錠も満期になって、手ばなしで酒を飲んでいましたが、話が米友のことになると、道庵が言うには、あの野郎は変な野郎で、ついこのごろ、薬を買いにやったところが、その代金を途中で落したとか取られたとか言って、ひどく悄気《しょげ》て来たから、そんなに力を落すには及ばねえと言って叱りもしないのに、気の毒がって出て行ってしまった。さあ、その行先は、よく聞いておかなかったが、なんでも本所の鐘撞堂《かねつきどう》とか言っていたようだ、と言いました。
米友の行方《ゆくえ》を道庵先生が知っているだろうと、それを恃《たの》みに訪ねて来たお松は、せっかくのことに失望しましたけれど、なお近いうちには便りがあるだろうと言われて、いくらか安心して帰途に就きました。お松が、道庵先生の屋敷の門を出ようとすると出会頭《であいがしら》に、
「おや、お松じゃないか」
「伯母さん」
悪い人に会ってしまいました。これはお松のためには唯一の伯母のお滝でありました。ただ一人の現在の伯母であったけれども、決してお松のためになる伯母ではありません。前にもためにならなかったように、これからとてもためになりそうな伯母でないことは、その身なりを見ても、面《かお》つきを見てもわかるのであります。
「どうしたの、まあお前、珍らしい、こんなところで」
「どうも御無沙汰をしてしまいました」
「御無沙汰もなにもありゃしない、お前、こっちにいたんならいたように、わたしのところへ何とか言ってくれたらよかりそうなものじゃないか、そんなにお前、親類を粗末にしなくったっていいじゃないか、いくらわたしが零落《おちぶ》れたって、そう見下げなくってもいいじゃないか」
「そういうわけではありませんけれど」
「まあ、こんなところで何を言ったって仕方がないから、わたしのところへおいで、前と同じことに佐久間町にいるよ、ここからは一足だよ、わたしも此家《ここ》の先生へ用があって来たけれど、お前に会ってみれば御用済みだよ、さあ一緒に帰りましょう、いろいろその後は混入《こみい》った事情もあるんだから、さあ帰りましょう」
伯母のお滝は、もう自分が先に引返して、お松を自分の家へ連れて行こうというのであります。その言葉つきから言っても、素振《そぶり》から言っても、以前よりはまた落ちてしまったように見えることが、お松には浅ましくて堪りません。
「せっかくでございますけれど伯母様、今日は急ぎの用事がございますから、明日にも、きっと改めてお邪魔に上りますから」
「そんなことを言ったって駄目ですよ、お前はもうこの伯母を出し抜くようになってしまったのだから油断がなりませんよ、お前に逃げられたために、わたしがどれほど災難になったか知れやしない、今日は逃げようと言ったって逃がすことじゃありませんよ」
「伯母さん、逃げるなんて、そんなことはありません」
「ないことがあるものか、京都を逃げたのもお前だろう、それからお前、国々を渡り歩いていたというではないか、それで一度も、わたしのところへ便りを聞かせてくれず、こっちへ来ても、他人のところへはこうして出入りをしていながら、目と鼻の先にいるわたしのところなんぞは見向きもしないじゃないか、ほんとにお前くらい薄情者はありゃしない」
「けれども伯母さん、今日はどうしても上れません」
お松の言葉が意外に強かったものだから、お滝も少し辟易《へきえき》し、
「どう
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