った米友の心持が、ようやくじりじりと呪《のろ》われてゆくことは、米友にとって重大なる不幸であると共に、斯様《かよう》な単純な男を一途《いちず》に呪いの道へ走らせることは、その恨みを受けた者にとっては、かなりに危険なことでありました。
 米友はそこに突立って唸り、歯がみをして独言《ひとりごと》を言って、通る人を不思議がらせ、ついにその周囲へ一人立ち二人立つような有様になった時に気がついて、
「覚えてやがれ」
 歯を食いしばったままで、サッサと人混みを通り抜けて、他目《わきめ》もふらずに両国橋を渡って行く挙動は、おかしいというよりは、確かにものすさまじい挙動でありました。
「何だあいつは」
 通りすがる人が、みな振返って米友の後ろを見送るほどに、穏かならぬ歩きぶりであります。

         十一

 両国橋を渡りきった米友は、回向院《えこういん》に突き当って右へ廻って竪川通《たてかわどお》りへ出ました。それからいくらもない相生町の河岸《かし》を二丁目の所、例の箱惣の家の前まで来て見ると、どうやらその頃とは様子が変っているようであります。
 あの時は祟《たた》りがあるの、お化けが出るのと言って誰も住人《すみて》の無かったものが、今は立派に人が住んでいるらしくあります。それも商人向きの造作が直されて、誰か然るべき身分の者の別邸かなにかのような住居になっていました。そのほかには、あんまり変ったこともないから米友は、その家の前を素通りをして行ってしまおうとすると、
「あ、おじさんが来たよ、槍の上手なおじさんが来たよ」
 バラバラと米友の周囲《まわり》に集《たか》って来たのは、河岸に遊んでいた子供連であります。これは米友がここに留守居をしていた時分の馴染《なじみ》の子供連であります。留守番をしている時分には、米友の周囲がこれらの子供連の倶楽部《くらぶ》になったものであります。子供連は思いがけなくも米友の姿をここに見出したものだから、ワイワイと集まって来て、
「おじさん、槍の上手なおじさん、どこへ行ったの」
「うむ、俺《おい》らは旅をして来たんだ」
「ずいぶん長かったね、ナゼもっと早く帰らなかったの」
「向うで忙がしかったんだ」
「もう御用が済んだのかい、またおじさん遊ぼうよ」
「うむ」
「おじさんがいる時分にはね、みんなしてこの家の中へ入って遊んだんだけれど、今は誰も入れなくなってしまったよ」
「そうかい」
「おじさんが帰って来たから、おいらたちもこの家の中へ入って遊んでいいんだろう」
「そうはいかねえ」
「どうして」
「もうここは俺らの家じゃねえんだ」
「おじさんの家はどこなの」
「俺らの家か、俺らの家は下谷の方だ」
「遠いんだね、もっと近いところへ越しておいでよ」
「うむ」
「おじさん、槍を持って来なかったのかい」
「うむ」
「持って来ればいいに。みんな、このおじさん知ってるかい、背が低いけれど槍が上手なんだよ」
「知ってまさあ。家のチャンなんぞも、そいってらあ、槍でもってここの家へ入った浪人者を追い飛ばしたんだね、おじさん」
「うむ」
「えらいね、おじさんは見たところ、子供のように見えるけれど、あれで子供じゃねえんだって、家のお母アもそいってたよ」
「そうだよ、おじさんは背が低くって可愛いところがあるけれど、あれで年食《としくら》いなんだって。おじさん、幾つなんだい、教えて頂戴よ」
「うむ」
「またおじさんが槍を持って、ここの番人に来てくれるといいなア、そうすると毎日遊びに来られるんだけれど」
「あたいは、おじさんが来たら槍を教えてもらおうや、そうして槍の名人になりたいなあ」
 米友はこれらの子供連に取巻かれてワイワイ言われていました。子供連はよく米友を覚えているし、その親たちまでがいまだに米友のことを評判しているのも、その言葉によってうかがわれるのであります。それだから米友は、これらの子供連を路傍の人とも思えないでいると不意に、近いところでけたたましい物音がすると共に、わーっと子供の泣く声です。
「そーれ、金ちゃんちの三ちゃんが井戸へ落っこった!」
「ああ、金ちゃんちの三ちゃんが井戸へ落っこってしまったア」
 今まで米友を取巻いていた子供連が、面《かお》の色を変えて叫び出し、河岸に近いところの車井戸の井戸側へ集まりました。
 今の物音でも知れるし、子供の泣き声でもわかる。確かに、たった今この井戸の中へ陥《はま》った子供があることは疑う余地がありません。
 それを見るや米友は、首根っ子に結《ゆわ》いつけていた風呂敷包をかなぐり捨てて、直ちに井戸側へとりつきました。井戸側へとりついていた時は早や、その棒縞《ぼうじま》の仕立下ろしの着物をも脱ぎ捨てて裸一貫になっていました。裸一貫になったかと思うと、車井戸の釣縄《つりなわ》の一方をあくまで高く吊《つる》し上げて、釣瓶《つるべ》を車へしっかりと噛ませておいて、その縄を伝って垂直線に井戸の底へ下って行きました。
 こうして分けて書くと、その間に多少の時間があるようだけれど、その瞬間の米友の挙動は驚くべき敏捷なものでありました。首根ッ子へ結いつけていた風呂敷をかなぐり捨てた時は、井戸端を覗《のぞ》いた時、井戸端を覗いた時は、棒縞の仕立下ろしの着物を脱ぎ捨てて裸一貫になっていた時、裸一貫になっていた時は、釣縄を高く吊し上げた時、縄を高く吊し上げた時は、早や縦一文字に井戸の底へ下って行った時で、ほとんど目にも留まらない早業でありました。
 近所の親たちが青くなって井戸側へ駆けつけ、それ梯子《はしご》よ縄よ、誰が下りろ、彼が下りろと騒いでいる時に、井戸の底から米友が大きな声で呼びました。
「大丈夫だ、子供は生きてる、生きてる、心配しずにその縄を手繰《たぐ》ってくれ」
 この声で初めて、誰とも知らず助けに下りている者があるということがわかりました。これで近所の親方もおかみさんも総出で、エンヤラヤと井戸縄を手繰《たぐ》り上げると、芝居のセリ出しのように現われて来たのは、五ツばかりになる男の子を小脇にかかえた米友でありました。その子供は声を嗄《か》らして泣いていました。泣いていることが生命が無事であったことを証拠立てるのだから、その母親らしい女は駈け寄って、米友の手から奪うようにその子を抱き上げ、
「三公、まあお前、よく助かってくれたねえ、よく助かってくれたねえ」
 ほんとに仕合せなことには、頬のところへ少しばかりきずが出来たばかりで、上手に落ちていましたから、多少、水は呑んでいたようだけれど、見るからに生命の無事は保証されるのであります。
「この井戸へ落ちて、よくまあ助かったねえ、ほんとに水天宮様の御利益《ごりやく》だろう」
 附近の親たちはその無事であったことを賀するやら、自分の子供たちが危ないところで遊ぶのを叱るやら、井戸側はまるで鼎《かなえ》のわくような騒ぎになってしまいました。
「ほんとにこれこそ水天宮様の御利益だ」
 いい面《つら》の皮《かわ》なのは米友であります。米友の背が低いから子供に見誤ったものか、或いはこの驚きに紛れて逆上《のぼせ》てしまったものか、誰ひとり米友にお礼を言うことに気がつきませんでした。そうしてやたらに水天宮様ばかりを讃《ほ》めているのであります。
 母親は米友の手から子供を奪って自分の家へ持って帰りました。弥次馬はそのあとをついて喧々囂々《けんけんごうごう》と騒いでいます。井戸側の少し離れたところに米友は、たった一人で手拭をもって身体を拭いていましたが、やっぱり誰も御苦労だとも、大儀だとも言うものはありませんでした。苦笑いしながら米友は着物を引っかけて帯を結んで、さて、
「あっ!」
と言って、さすがに米友があいた口が塞《ふさ》がらないのは、首根ッ子へ結《ゆわ》いつけていた風呂敷包が、いつのまにか紛失していることであります。
 風呂敷包が紛失しているのみならず、財布に入れておいた小銭までが見えなくなっていました。
 その風呂敷包みには、道庵から頼まれた薬を仕入れるための金銭が入れてありました。
 あまりのことに米友は腹も立てないで、着物を引っかけて苦笑いのしつづけです。
 この場合に米友の物を盗み去るのは、火事場泥棒よりももっとひどいやり方でありました。しかし、盗んで行った奴とても、ただ路傍に抛《ほう》り出してあったから、それを浚《さら》って行ったので、こういう場合に米友の抛り出して置いたものと知って盗んだのではありますまい。
 また、水天宮様ばかりを讃《ほ》めて、米友に一言の挨拶をもしなかったその子の親たちをはじめ近所の人々とても、決して米友を軽蔑してそうしたわけではなく、驚きと喜びに取逆上《とりのぼせ》て、ついそうなってしまったのであることは疑いもないのであります。
 あれもこれもばかばかしくって、さすがの米友も腹を立つにも立てられず、喧嘩をしようにも相手がなく、着物を引っかけて帯を結ぶと、杖を拾ってこの井戸側をさっさと立去ってしまいました。
 米友が立去った時分になって、井戸に落っこちた子供の親たちやその近所の者が、またゾロゾロと井戸側へ取って返しました。
 それはようやくのことに米友の恩を思い出して、それにお礼を言わなければならないことを、見ていた多くの子供たちから教えられたから、取って返したのです。しかし、それらの人たちが引返して来た時分には、肝腎の米友はもう井戸の側にはおりませんでした。その附近にもそれらしい人の影は見えませんでした。
 そこで今度はそれらの人が、あいた口が塞がらないのであります。実に申しわけがないと言って、盛んに愚痴を言ったり、子供らを叱ったりしていましたが、結局、もとこの箱惣の家に留守番をしていて、槍を揮《ふる》って侍を追い飛ばしたことのあるおじさんだということを、子供らの口から確めて、改めてお礼に行かなければならないと言っていたが、さて今ではその男がどこにいるのだか、子供らの話ではいっこう要領を得ません。
「おじさんは、少しの間、旅をしていたんだとさ、そうして今はなんでも下谷の方にいると言ったね、政ちゃん」
 子供らの米友についての知識は、これより以上に出でることはできませんでした。
 これより先、この騒ぎを聞きつけて、箱惣の家の物見の格子の簾《すだれ》の内から立って外を覗《のぞ》いていた娘がありました。それは米友が井戸から上って、着物を引っかけて、帯を結んでいる時分のことであります。
 この娘は、その時はじめて奥の方から出て来て、騒ぎのことはまるきり知りません。どうやら井戸へ人でも落ちたものらしいけれど、その時は井戸側の騒ぎは長屋裏の方へうつって、井戸側には、米友一人が向うを向いて帯を締めているだけのことでありましたから、最初はかくべつ気にも留めないでいました。そのうちに長屋の方からまたゾロゾロと人が引返して来ると、井戸側にたった一人で向うを向いて、着物を着て、帯を締めていた小男は、さっさと歩き出してしまいました。その小男が歩き出した途端に、簾の中から見ていた娘は、
「おや?」
と言って驚きました。再び篤《とく》と見直そうとした時に、
「お松様、お松様」
 奥の方で呼ぶ声がします。
「はい」
 表へ駈け出そうとした娘は奥を振返りました。この娘はすなわちお松であります。

         十二

「お君さん」
と言って、お君がじっと物を考えているところへお松が入って来ました。お君がこうして遣《や》る瀬《せ》ない胸をいだいて物思いに沈んでいる時にも、お松はものに屈託《くったく》しない晴れやかな面《かお》をして、
「わたしは今、珍らしい人に逢いました、たしかにそうだろうと思いますわ」
「それはどなた」
 お君もまたお松の晴れやかな調子につりこまれて、美しい笑顔を見せました。
「当ててごらんなさい」
「誰でしょう」
「お前様の、いちばん仲のよいお友達」
「わたしのいちばん仲のよいお友達?」
と言ってお君は美しい眉をひそめました。仲の善いにも悪いにも、このお松をほかにしては、友達らしい友達を持たぬ自分の身を顧みて、お松の言
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