れているはずなのに、絶えて吠えることをしないから、誰もここにこの犬が繋がれていることをさえ、外では知っている者はないようです。
 たまたま附近の野良犬がこの屋敷へ入り込んで、なにげなくこの近いところへ来て、松の樹の下にムク犬の姿を認めると、急にたじろいで、尾を股の間に入れて逸早《いちはや》く逃げ出すくらいのものでありました。
 ムクが吠えないのは、吠えても無益と思うからでありましょう。吠えてみたところで、今やこの甲府の界隈《かいわい》には、自分の声を理解してくれるものがないと諦めているためかも知れません。それが無い以上は、いかに自分の力を恃《たの》んだところで、馬場美濃守以来という老木を、根こぎにすることは不可能であるし、大象をも繋ぐべきこの二重三重の鎖を、断ち切ることも不可能であることを、徐《おもむ》ろに観念しているためでありましょう。
 こうしてムク犬が沈黙していると、或る日この屋敷の裏口から、怖る怖る入って来た二人の男がありました。
「へえ、御免下さいまし、御本宅の方から頼まれてお犬を拝見に上りました、どなたもおいではございませんか。おいでがございませんければ、お許しが出ているん
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