去ったものかとも思われるが、どうも文面によるとそればかりではないらしく思われる。
 その日のうちに、宇津木兵馬もお君を連れて、扇屋を引払ってしまいました。

         八

 甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の、神尾主膳の別邸の広い庭の中に盤屈《ばんくつ》している馬場の松の根方に、もう幾日というもの、鉄の鎖で二重にも三重にも結びつけられている一頭の猛犬がありました。
 これは間《あい》の山《やま》のお君にとっては、唯一無二の愛犬であったムク犬であります。影の形に添うように、お君の後ろにもムク犬がなければならなかったのに、それが向岳寺の尼寺から、滝の川の扇屋に至るまで、あとを追った形跡の無いということは寧《むし》ろ不思議であります。
 ムク犬を捕えて離さないのは、この馬場の松の老木と、それに絡《から》まる二重三重の鉄の鎖でありました。
 松の樹の下に繋がれているムク犬には、誰も食物を与えるものがないらしくあります。
 それ故に、さしもの猛犬が、いたく衰えて見えます。真黒い毛が縮れて、骨が立っています。前足を組んで、首を俛《た》れて沈黙しています。
 もうかなり長いこと、ここに繋が
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