合にも身を避けることを知って、その投げつけた枕を外すと、それが行燈《あんどん》に当ってパッと倒れて、燈火《あかり》が消えて暗となりました。
「どなたぞ、おいで下さい、悪者が……」
 この声で扇屋の上下はことごとく眼をさましました。その騒ぎと暗とに紛れて、悪者は疾《と》うにどこへか出て行ってしまって、扇屋の若い者などは空しく力瘤《ちからこぶ》を入れて、その出合わせることの遅かったのを口惜しがりました。幸いにしてお君の身にはなんの怪我もありませんでした。他の客人にも、家の人にも、雇人にも、女中にもなんの怪我もありませんでした。盗難は……盗まれたものは、それを調べてみるとお君は、面の色を変えないわけにはゆきません。
 衣桁《いこう》にかけておいた打掛と、それからさきほど兵馬の手を通じて、主君の駒井能登守が手ずから贈られた記念の二品が、確かになくなっているのであります。これはお君にとっては、身にも換えられないほどの大切な品であります。
 さりとてここでその品物の名を挙げて、宿の者にまで駒井能登守の名を出したくはありません。兵馬さえいたならば何とでも相談相手になろうものを、昨夜に限って戻って来な
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