てもらえばよろしい、名宛の人がおらぬ時は、預けておいてよろしい、返事は要らぬ、これは些少《さしょう》ながらのお礼の印」
「どう致しまして、ほんのついででございますから、こんな物をいただいては済みましねえでございます」
 馬上の人はお礼の寸志として、いくらかの金を与えようとしたのを、律義《りちぎ》な百姓は容易に受けようとしませんでした。それを強《し》いて取らせると、百姓は幾度も幾度も繰返してお礼を言い、その手紙を受取り、金の方はいただいていいのだか悪いのだか、まだわからないような面《かお》をしているうちに馬上の人は、
「しからば、確《しか》とお頼み申しましたぞ」
とばかり馬に鞭をくれてサッサと歩ませて行きました。百姓はその後ろ姿を見送って、
「お代官様みたようなエライお方だ、どこのお邸のお方か知らねえけれど」
と言って、その百姓はいま受取った手紙の表を見ると、見事な筆蹟で、
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「扇屋にて、宇津木兵馬殿」
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と記してありました。

 扇屋の一間に、お君は兵馬を待っていました。遅くも帰るであろうと待っていた兵馬は、ついに帰りません。
 兵馬の身の
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