居にもなるめえじゃねえか」
 七兵衛はこう言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]をばかにしたような面をすると、
「ナーニ、あの女がここにいるからには、大将だってまんざら遠いところにいるでもあるめえ」
「手前は、まだその見当がつかねえのか」
「兄貴、お前はまたそれを知ってるのか」
 こんなことを話し合っているうちに、二人の話がハタと止んで、やがて滝の川の方面へ忍んで行くらしくあります。

 その翌朝、駒井甚三郎は、例の研究室の前の塀に、ふと妙なものがかかっているのを認めました。皮を剥いだもののように、一枚の裲襠《うちかけ》が塀に張りつけてありました。その上に刀の小柄《こづか》を突き刺して、それに錦の袋に入れた守り刀様のものがぶらさげてありました。
 駒井甚三郎がそれを見た時は、まだ夜があけはなれないうちで、誰もその以前に気がついたものはありませんでした。それを一目見ると駒井甚三郎の面《おもて》に、非常な不快な色がサッと流れました。それは裲襠も守り刀も、共に見覚えのある品でありました。篤《とく》と見ているうちにいよいよ不快の色で満たされて、この時はさすがにこの人も、その憤懣《ふんまん》を
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