がめている前には、長さ二尺に幅四寸ほどの小形の蒸気船の模型が一つ置いてあります。
 駒井甚三郎は、その蒸気船の模型からしばしも眼は放さずに、手はペンを取って、しきりに角度のようなものを幾つも書いているのであります。この人は、いま出向いて行ったことのために、何か気に鬱屈《うっくつ》があってこうしているのかと思えば、そうではなくて、この小型の蒸気船の模型と、それを見ながら幾つも幾つも線と劃を引張ることに一心不乱であるものらしく見えます。それにようやく打込んでゆくと、急に洋式の算術らしいことを始め、次に日本の算盤《そろばん》を取って幾度か計算を試み、それから細長い形の黒い玉を取っては秤台《はかりだい》の上へ載せ、それを幾つも幾つも繰返して、その度毎に目方を記入しているようでありました。
 この時分、夜はようやく更《ふ》けて行って、水車の万力《まんりき》の音もやんでしまい、空はたいへんに曇って、雨か風かと気遣《きづか》われるような気候になってきたことも、内にあって一心にこれらの計算に耽《ふけ》っている駒井甚三郎には、いっこう感じがないらしくあります。
 風が出たなと思った時分に、駒井甚三郎は、
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