んでした。
これより先、病気であった夫人は、親戚の手に奪うが如く引取られてしまったということです。家来の者は四分五裂です。
主人の能登守は自殺したという噂《うわさ》もあるし、遠国へ預けられたという噂もありましたが、ただその噂だけで、誰も一向にその消息を知った者はありません。
あまりといえばこれは脆《もろ》い話であります。器量と言い学問と言い、ことに砲術にかけて並ぶ者がないと言われた人であります。未来の若年寄から老中を以て望みをかけられたほどの若い人才が、ほんの一人の女のために身を誤ったとすれば、惜しみても余りあることであります。失敗や蹉跌《さてつ》は男子の一生に無いことではありません。事によってはそれがかえって、後日大成を為す苦《にが》き経験であることも少なくはありません。
けれども能登守のこのたびの失敗ばかりは、とうてい取り返すことのできない失敗であります。能登守というものは、これで全然社会から葬られてしまった結果になりました。能登守自身が葬られてしまったのみならず、遠くはその祖先の名も、近くはその親類の名も、これによって泥土《でいど》に汚《けが》されたと同じような結果になっ
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