絹の名を呼びながら、庭下駄を穿いてこちらへ来るらしいのは、まさしく酒乱の神尾主膳の声であります。
 このごろでは神尾が酒乱になった時には、誰もみな逃げてしまいます。誰も相手にしないで罵るだけ罵らせ、荒《あば》れるだけ荒れさせて、その醒《さ》める時まで抛《ほう》っておくのであります。
 相手のない酒乱に、拍子抜けのしたらしい神尾主膳は、何を思いついたか、お絹の住む別宅の方へ押しかけて来るらしいのであります。その声を聞くと、お絹は浅ましさに身を震わせました。
 幸いにして神尾主膳は境の木戸を開こうとして、その錠《じょう》の厳しいのにあぐんだものか、とりとめもなき言語を吐き散らした上に引上げてしまったもののようでありました。
 お絹はホッと息をつきましたけれど、苦悶の色が面《かお》に満つるのを隠すことができません。

         四

 気の毒なのは駒井能登守であります。江戸の本邸に着いたまでは、ともかくもその格式で帰りました。
 江戸へ着いてからいくばくもなくして、その姿をさえ認めたものはありません。番町の本邸は鎖《とざ》されて朽《く》ちかかったけれど、新しい主を迎える模様は見えませ
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