許の明るいうち、また故郷の浜松に舞い戻ろう、お絹はこうも思慮を定めました。しかし故郷へ引込むには、引込むようにしなければならないと思いました。先立つものは金であります。その金が全く思うようにならぬ時分に、こんな思慮を定めたことは不幸であります。
「金が欲しい、お金が欲しい」
 お絹は痛切にそのことを考えました。それがお絹をして一層、勝負事に焼けつくようにさせてしまいました。
 ところが、そんな場合における勝負運は皮肉なもので、勝ちたいと思えば思うほど負け、焦《あせ》れば焦るほど喰い違ってゆくのであります。お絹は身の廻りの、ほとんど総ての物を失ってしまいました。借りるだけの信用のある金は借り尽してしまいました。
 今夜も、お絹は堪らなくなって、隠しておいた冷酒を茶碗に注いで飲もうとする時に、本邸の方で大きな声で罵《ののし》るのが聞えます。
 それは紛れもなき主人の神尾主膳が、酒乱のために人を罵っているのであります。
 それを聞きながらお絹は、また一杯の冷酒を茶碗に注いで、口のところへ持って行ったけれど、それは苦いもののようであります。
「お絹殿、お絹殿」
 呂律《ろれつ》も廻らない声でお
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