あいだ人を欺き、自らを欺いたことの記憶を呼び起してその良心に恥かしくなった、それのみではありません。
 ここへ来るとお君のことが思い出され、甲州へ置いて来たお君の面影が、強い力で米友の心を押えてきたから、
「うーむ」
と言って米友は、突立ったなりで歯を食いしばりました。
「うーむ」
 今はここへ来て、それがいつもするよりは一層烈しい心持になって、歯を食いしばって唸《うな》ると共に身震いをしました。
「能登守という奴が悪いんだ、あいつがお君を蕩《たら》したから、それであの女があんなことになっちまったんだ、御支配が何だい、殿様が何だい」
 米友は、傍《かたわら》へ聞えるほどな声で唸りながら独言《ひとりごと》を言っています。お君のことを思い出した時の米友は、同時に必ず能登守を恨むのであります。何も知らないお君を蕩して玩《もてあそ》びものにしたのは、憎むべき駒井能登守と思うのであります。
 大名とか殿様という奴等は、自分の権力や栄耀《えいよう》を肩に着て、いつも若い女の操《みさお》を弄び、いい加減の時分にそれを突き放してしまうものであると、米友は今や信じきっているのであります。その毒手にかかっ
前へ 次へ
全172ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング