絹の名を呼びながら、庭下駄を穿いてこちらへ来るらしいのは、まさしく酒乱の神尾主膳の声であります。
このごろでは神尾が酒乱になった時には、誰もみな逃げてしまいます。誰も相手にしないで罵るだけ罵らせ、荒《あば》れるだけ荒れさせて、その醒《さ》める時まで抛《ほう》っておくのであります。
相手のない酒乱に、拍子抜けのしたらしい神尾主膳は、何を思いついたか、お絹の住む別宅の方へ押しかけて来るらしいのであります。その声を聞くと、お絹は浅ましさに身を震わせました。
幸いにして神尾主膳は境の木戸を開こうとして、その錠《じょう》の厳しいのにあぐんだものか、とりとめもなき言語を吐き散らした上に引上げてしまったもののようでありました。
お絹はホッと息をつきましたけれど、苦悶の色が面《かお》に満つるのを隠すことができません。
四
気の毒なのは駒井能登守であります。江戸の本邸に着いたまでは、ともかくもその格式で帰りました。
江戸へ着いてからいくばくもなくして、その姿をさえ認めたものはありません。番町の本邸は鎖《とざ》されて朽《く》ちかかったけれど、新しい主を迎える模様は見えませんでした。
これより先、病気であった夫人は、親戚の手に奪うが如く引取られてしまったということです。家来の者は四分五裂です。
主人の能登守は自殺したという噂《うわさ》もあるし、遠国へ預けられたという噂もありましたが、ただその噂だけで、誰も一向にその消息を知った者はありません。
あまりといえばこれは脆《もろ》い話であります。器量と言い学問と言い、ことに砲術にかけて並ぶ者がないと言われた人であります。未来の若年寄から老中を以て望みをかけられたほどの若い人才が、ほんの一人の女のために身を誤ったとすれば、惜しみても余りあることであります。失敗や蹉跌《さてつ》は男子の一生に無いことではありません。事によってはそれがかえって、後日大成を為す苦《にが》き経験であることも少なくはありません。
けれども能登守のこのたびの失敗ばかりは、とうてい取り返すことのできない失敗であります。能登守というものは、これで全然社会から葬られてしまった結果になりました。能登守自身が葬られてしまったのみならず、遠くはその祖先の名も、近くはその親類の名も、これによって泥土《でいど》に汚《けが》されたと同じような結果になってしまいました。
一死よりも名誉を重んじ、一命よりも門地を尚《たっと》ぶ習慣の空気に生い立ちながら、みすみすこういうことをしでかした能登守には、魔が附いたと見るよりほかはないのであります。それほどの馬鹿でもなかったはずの人が、これより上の恥辱はないほどの恥辱を以て、生きながら葬られたことは、ひとごとながら浅ましさに堪えられないほどのことであります。
それでありながら立派に腹も切れないとは、よくよく腰が抜けたものだと憤慨する人や、ここで腹を切ったら、それこそ恥の上の恥の上塗りだと冷笑する者や、それらの空気の間で、駒井家は見事に没落して、その空《あき》屋敷《やしき》の前を通りかかった者でもなければ、もう噂をいう人もないという時分になってしまいました。
その時分に、王子の滝の川の甚兵衛という水車小舎の附近へ、公儀から役人が出向いて、縄張りがはじまりました。何か目的あってこの土地へ建前《たてまえ》をするもののように見受けられました。ことにそれは、川に沿うて水の流れを利用するらしい計画であります。
土地の人も、最初は何の目的の縄張りであるかを知りませんでした。ほどなく同地の扇屋を旅館として、身分ある公儀の役人が詰めた時に、その縄張りの計画がかなり重大なものであることを悟りました。そこへ来た役人の重《おも》なる者は、沢太郎左衛門と武田斐三郎《たけだひさぶろう》とでありました。この二人は、幕府のその方面において軽からぬ地位の人でありました。扇屋へ招かれた大工の伊三郎だの、鳶《とび》の万蔵だのという者の口から聞くと、このたびのお縄張りは、滝の川附近へ、公儀で火薬の製造所をお建てになる御目論見《おんもくろみ》から出たものだということがわかってきました。
この火薬の製造所は、従来の火薬の製造とは違って、日本において初めての西洋式の火薬の製造所を建てるということなのであります。その計画は、小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》と武田斐三郎との両人の企てで、沢太郎左衛門がそれに参加したのは、やや後のことになります。
こうなって来ると思い出されるのは、それにもう一枚、駒井能登守ということでありますが、惜しい哉《かな》、せっかくの人材も烏有《うゆう》のうちに葬られています。
この日本で初めての西洋式の火薬の製造所の工事は、着々と進んで行きました。
最初に縄張りをした甚兵衛水車の附近
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