ったのも、誰も知るものはありませんでした。これを想像するに、或いはいったん甲府へ帰って、また神尾主膳の下屋敷にでも隠れるようになったものかも知れません。或いはまたお銀様の望み通りに、江戸へ向けて姿を晦《くら》ましたものかも知れません。とにかく、八幡村にはこの二人の姿は見えないのであります。
 或る人はまた、夜陰《やいん》、小泉家から出た二挺の駕籠《かご》が、恵林寺《えりんじ》まで入ったということを見届けたというものもありました。しかし、小泉家と恵林寺とは、常に往来することの珍らしからぬ間柄でありましたから、それを怪しむ心を以て見届けたのではありません。
 駒井能登守去って以来の甲府は、神尾主膳の得意の時となりました。けれどもその得意は、あまり寝ざめのよい得意ではありませんでした。心ある人は主膳の得意を爪弾《つまはじ》きしていました。主膳自らもこのごろは、酒に耽《ふけ》ることが一層甚だしくなって、酒乱の度も追々|嵩《こう》じてくるのであります。酒乱の後には、二日も三日も病気になって寝るようなことがあります。
 主膳は執念深くも、能登守がお君という女をどのように処分するかを注目し、手討にしたという評判を聞いた後も、その注目をゆるめることなく、そののち向岳寺に、見慣れぬ尼が送り届けられているということを聞いて、途中でその女を奪い取らせようとしました。
 お松が神尾の屋敷を脱け出したのは、その間のことでありました。向岳寺から出た乗物を奪わせようと計ったことが、さんざんの失敗に終ったという報告も同時に齎《もたら》されたが、主膳がそれと聞いて何とも言わずに苦笑いして、寝込んでしまったのもその時分のことです。
 甲府城内の暗闘とか勢力争いとかいうことは、それで一段落になりました。
 別家にいるお絹という女にとっても、このごろは同様に荒《すさ》んだ有様がありありと見えます。出入りの誰彼との間に、いろいろとよくない噂が口に上るようになりました。或いは当主の主膳と、このお絹との間柄をさえ疑うものが出て来るようになりました。
 それらの不快や不安を紛らわすためかどうか知らないが、神尾を中心として酒宴を催されることが多くなり、お絹もまた、その別家へ人を招いては騒々しい興に、夜の更くることを忘れるようなことが多くありました。それから勝負事は一層烈しくなり、お絹までが勝負事に血道《ちみち》を上げるようになってしまいました。
 このごろのお絹は、自宅へ男女の客を招いては勝負事に浮身《うきみ》をやつしています。
 或る時は、思いがけない大金を儲《もう》けることもありました。或る時は、大切の頭飾《かみかざ》りなどを投げ出すようなこともありました。
 興が尽きて客が去ったあとでは、なんだか堪《たま》らないほどな淋《さび》しさを感ずるようになりました。その淋しさを消すために、冷酒《ひやざけ》を煽《あお》るようなこともあり、ついには毎夜、冷酒を煽らなければ寝つかれないようになってしまいました。
 お松がいればこれほどにはならなかったものであります。お絹はともかくもお松を保護していました。お松もまた何かと言っても、恩人としてその人に忠実でありました。だからお松があることによって、なんとなしに前途に希望を持っていましたけれど、そのお松が逃げてしまってみると、頼む木蔭の神尾の当主というのはこの通りの人物であるし、自分は年ようやくたけて容色は日に日に凋落《ちょうらく》してゆくし、そうかと言って、頼るべき親類も、力にすべき子供もないのであります。それを考えると、前途は絶望あるのみでありました。足許の明るいうち、また故郷の浜松に舞い戻ろう、お絹はこうも思慮を定めました。しかし故郷へ引込むには、引込むようにしなければならないと思いました。先立つものは金であります。その金が全く思うようにならぬ時分に、こんな思慮を定めたことは不幸であります。
「金が欲しい、お金が欲しい」
 お絹は痛切にそのことを考えました。それがお絹をして一層、勝負事に焼けつくようにさせてしまいました。
 ところが、そんな場合における勝負運は皮肉なもので、勝ちたいと思えば思うほど負け、焦《あせ》れば焦るほど喰い違ってゆくのであります。お絹は身の廻りの、ほとんど総ての物を失ってしまいました。借りるだけの信用のある金は借り尽してしまいました。
 今夜も、お絹は堪らなくなって、隠しておいた冷酒を茶碗に注いで飲もうとする時に、本邸の方で大きな声で罵《ののし》るのが聞えます。
 それは紛れもなき主人の神尾主膳が、酒乱のために人を罵っているのであります。
 それを聞きながらお絹は、また一杯の冷酒を茶碗に注いで、口のところへ持って行ったけれど、それは苦いもののようであります。
「お絹殿、お絹殿」
 呂律《ろれつ》も廻らない声でお
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