ん。
 けれども、その筋においても、一応|内偵《ないてい》しての上、どうしたものか急に手を引いてしまったらしいようであります。
 ここにおいて、老女の身辺には幾多の臆測が加わりました。誰いうとなく、こんなことを言うものがあります。
 十三代の将軍|温恭院殿《おんきょういんでん》(家定《いえさだ》)の御台所《みだいどころ》は、薩摩の島津斉彬《しまづなりあきら》の娘さんであります。お輿入《こしいれ》があってから僅か三年に満たないうちに、将軍が亡くなりました。二十四の年に後家さんになった将軍の御台所が、すなわち天璋院《てんしょういん》であります。天璋院殿は島津の息女であったけれども、近衛家《このえけ》の養女として、将軍家定に縁附いたものだということであります。この老女は、その天璋院殿のために、薩摩から特に選ばれて附けられた人であるというのが一説であります。
 その説によると、この老女の背後には、将軍の御台所の権威と、大大名の薩摩の勢力とが加えられてあるわけであります。だからそこへ出入りする浪士体の者の中には薩摩弁の者が多く、そうでないにしても、九州言葉の者が多いのが何よりの証拠だということであります。それでこの老女は、薩摩の家老の母親で、天璋院殿のためには外《よそ》ながら後見の地位におり、ややもすれば暗雲の蟠《わだかま》る大奥の勢力争いを、ここに離れて見張っているのだということであります。将軍の御台所も、薩摩の殿様でさえも一目置くくらいの権威があるのだから、ここへ出入りする武士どもを、子供扱いにするのは無理のないことだというような説もなるほどと聞ける。
 もう一つの説は、こうであります。
 十三代の将軍が、わずかに三十五歳で亡くなった後に、幕府では例の継嗣《けいし》問題で騒ぎました。その揚句《あげく》に紀州から迎えられたのが十四代の将軍|昭徳院殿《しょうとくいんでん》(家茂《いえもち》)であります。この家茂に降嫁された夫人が、すなわち和宮《かずのみや》であります。和宮は時の帝《みかど》、孝明天皇の御妹であらせられました。
 それが京都と関東との御仲の御合体のためにとて御降嫁になったことは、その時代において、この上もなき大慶のこととされておりました。
 疑問の老女は、和宮様のために公家《こうけ》から附けられた重い役目の人であるというのも、なるほどと聞かれる説でありました。もしそうだとすれば、これは前の説よりも一層、威権を加えた後光《ごこう》であります。それを知ってその筋が、内偵の手を引いたのももっともと頷《うなず》かれる次第でありました。
 こんなふうに後光の射すほど、老女の隠れた勢力を信用しているものもあれば、また一説には、ナニあれはそんな混入《こみい》った威権を笠にきている女ではない、単に一種の女丈夫であるに過ぎない。たとえば筑前の野村望東尼《のむらもとに》といったような質《たち》の女で、生来ああした気象の下に志士たちの世話をしたがり、その徳で諸藩の内から少なからぬ給与を贈るものがあり、志士もまたこの家をもっともよき避難所としているに過ぎないという説も、なるほどと聞かれないではありません。
 いずれにしてもこの老女がただものでないということと、ただものでないながら、こうして通して行ける徳望は認めなければならないのであります。侠気《きょうき》、胆力、度量、寧《むし》ろ女性にはあらずもがなの諸徳を、この老女は多分に持っているには違いありません。
 別に、この老女が愛して、手許から離さぬ一人の若い娘がありました。これは疑問の余地がなく、甲州から男装して逃げて来た松女であります。老女が外出する時も、そのお伴《とも》をして行くのは大抵は松女でありました。
 甲州街道でお松の危難を助けて、江戸へ下った南条なにがしもまた、この老女の許《もと》へ出入りする武士のうちの重《おも》なる一人でありました。
 南条なにがしは、お松を助けて江戸へ出て、それからこの老女にお松の身を托したということは、おのずから明らかになってくる筋道であります。
 或る日、南条なにがしは、不意に一人の人をつれてこの家を訪れ、老女の傍にいたお松を顧みて、
「お松どの、珍らしい人にお引合せ申そう、奢《おご》らなくてはいかん」
と冗談《じょうだん》を言いながら、
「宇津木」
と呼びました。次の間にいた兵馬が、なにげなくこの座敷へ通ってまず驚いたのは、そこにお松のいることでありました。お松もまた一見してその驚きと喜びとは、想像に余りあることでありました。
「まあ、兵馬さん」
 甲府以来、その消息を知ることのできなかった二人が、ここで思いがけなく面《かお》を合せるということは、全く夢のようなことであります。
「いや、これには一場の物語がある、君に事実を知らせずに連れて来たのは罪のようだ
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