で来ました。
「そーれ、そっちへ行った」
「やーれ、こっちへ行った」
箒坊主や、味噌摺坊主《みそすりぼうず》は、いよいよ面白がってここまで追い詰めて来ると、
「何だ何だ、やかましい」
慢心和尚は、大きな声で右の坊主どもをたしなめます。
「和尚様、狂犬《やまいぬ》が飛び込みましたぜ、西の方から牢破りをして逃げた狂犬ですぜ、それが今、このお寺の中へ逃げ込んでしまいました、だからこうして追い飛ばしているのでございます」
「よけいなことをするな、そんなことをする暇に、味噌でもすれ」
慢心和尚は、群がっている大坊主や小坊主を叱り飛ばして、
「クロか、クロか、さあ来い、来い」
と言って手招ぎました。
人に狎《な》れることの少ないムク犬が、招かれた慢心和尚の面《かお》をじっと見つめながら、尾を振ってそこへキチンと跪《かしこ》まったのは、物の不思議です。
「狂犬であるか、狂犬でないか、眼つきを見ればすぐわかるじゃ、この犬を狂犬と見る貴様たちの方に、よっぽどヤマしいところがある」
慢心和尚は、こんな苦しい洒落《しゃれ》を言いながら、いま食べてしまった黒塗のお椀を取って、傍にいた給仕の小坊主に、
「もう一杯」
と言ってお盆の上へそのお椀を載せました。小坊主が心得て、いま食べたと同じような、お粥のような糊のようなものをそのお椀に一杯よそって来ると、
「南無黒犬大明神」
と言って推《お》しいただいて、恭《うやうや》しく座を立って、ムク犬の前へ自身に持って来ました。
そのお椀を目八分に捧げて、推しいただいて持って来る有様というものが馬鹿丁寧で、見ていられるものではありません。
「南無黒犬大明神様、何もございませんが、これを召上って暫時のお凌《しの》ぎをあそばされましょう」
縁のところへさしおいて、犬に向って三拝する有様というものは、正気の沙汰ではありません。
しかしながら、なお不思議なことは、神尾の下屋敷で、何を与えられても口を触れることだにしなかったムク犬が、この一椀のお粥とも糊ともつかぬものを、初対面の慢心和尚から捧げられると、さも嬉しげに舌を鳴らして食べはじめたことであります。
九
これより先、浪人たちに怨《うら》まれて、両国橋に梟《さら》された本所の相生町の箱屋惣兵衛の家が、何者かによって買取られて、新たに修復を加えられて、別のもののようになりました。
この家は、主人の箱惣が殺されて以来、一家は四散し、親戚の者も天誅《てんちゅう》を怖れて近寄るものがありませんでしたから、町内で保管し、一時は宇治山田の米友が、その番人に頼まれて、槍を揮《ふる》って怪しい浪人を追ったことなどもありました。
この家は何者によって買取られたか知れないが、持主がかわり修理が加えられると共に、そこに出入りするのは異種異様の人であることが、多少、近所のものの眼を引きました。身分あるらしい武士であり、或いは大名の奥に仕えるらしい女中であり、或いはまた諸国の商人のようなものまで集まりました。女房子供の類《たぐい》は一つも見えないで、これが主人と見えるのは、額《ひたい》に波を打つ大白髪《おおしらが》の老女でありました。
この老女は、気軽におりおりは一人で外出することもあり、また若い女中をつれて外出することもあり、物々しく乗物で乗り出すこともありました。たしかに武家出の人であって、一見して女丈夫とも思われるくらいの権《けん》の高い老女であります。
この老女の家には、前に言う通り絶えず食客がありました。その食客はまた武士であり、商人風の者であり、或いは労働者らしい身なりの者などもありました。けれど老女は来る者を拒《こば》むことなく、ことごとく自分の子供であるかの如く、その広い家を開放して彼等の出入りの自由に任せ、その窮した者には小遣銭《こづかいせん》までも与えてやっているようです。
食客連は、また己《おの》れが屋敷に帰ったような気取りで、或いは黙々として勘考をしているものもあれば、或いは寄り集まって、腕を扼《やく》しながら当世のことを論じて夜を明かすものもありました。
老女にとっては、それが大機嫌であるらしく、食客連の間で議論が決しない時は、老女のところへ持って出て、裁判を請うようなこともありました。
こんなに多くの食客を絶えず世話している老女の手許には、別に幾人かの女中や下働きが置いてありました。しかし、その男女間の別はかなり厳しいもので、食客連の放言高談には寛大である老女も、それと女中部屋との交渉は鉄《くろがね》の関を置いて、何人《なんぴと》をも一歩もこの境を犯すことのないようにしてあることでもわかります。
この老女が何者であろうということが、ようやく近所から町内の評判になる前に、その筋の注意を惹《ひ》かないわけにはゆきませ
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