それより以後におけるムク犬の荒《あば》れ方は、縦横無尽というものであります。
 武士と言わず犬殺しと言わず、その人の頭を飛び越して、ついに座敷の中へ乱入してしまいました。乱入したのではなく、ムクとしては、やはりその逃げ場を求むるために、心ならずも人間の住む畳の上まで上ってしまったものであります。
 家の中へ犬を追い入れた時は、たしかに犬にとってはいよいよ有利で、人間にとってはなかなか不利益でありました。単身にして身の軽い犬は、間毎間毎を飛び廻るのに自由であります。
 槍を持ったり、刀を持ったり、棒を持ったりして追い廻す人間は、家の中に於ての働きが不自由です。あっちへ行った、こっちへ来た、それ裏へ出た、表へ廻った、縁の下へ潜《もぐ》った、物置へ隠れたと言って騒いでいるうちに、そのいずれの口から逃げ去ったか知れないが、屋敷の中の湧き返るような騒ぎを後にして、ムク犬の姿は、この屋敷のいずれかの場所からか逃げ出してしまったものであります。
 山へ逃げた、林へ隠れた、畑にいたと、家の中の騒ぎが外へ出た時分には、ムク犬はそのいずれの場所にもいませんでした。この催しのためにはさんざんの失敗であったけれども、ムク犬のためには意外の救いが偶然のように起り、少なくともこの場所で、残忍な試験に供せらるるだけの憂目《うきめ》は免れることを得て、いずれへか逃げ去りました。しかし、こうなってみると、これから後、どこまでムク犬が逃げ了《おお》せられるかどうかは疑問であります。武家屋敷の召使や附近の百姓らは総出で、狂犬のあとを追うべく、山や、林や、畑から、巻狩《まきがり》のような陣立てをととのえたのは、それから長い後のことではありませんでした。
 左の肩先を犬に噛まれた神尾主膳は――一時それがために倒れて気絶したように見えました。駈け寄って介抱したもののために、直ぐに正気はつきましたけれど、それがために主膳の怒りは頂上に達し、
「憎い非人ども!」
 威丈高《いたけだか》になって、今しも、ムク犬を追って、外へ出ようとする犬殺しを呼び留めました。
「へいへい」
 そこへへたへたと跪《かしこ》まる犬殺しどもに、
「貴様たちは言語道断《ごんごどうだん》の奴等だ、このザマは何事だ」
「誠に申しわけがござりませぬ、温和《おとな》しそうな犬でございましたから、決してこんなことはなかろうと思いまして」
「黙れ! 馬鹿者」
 主膳は肩先に療治を受けて布を捲いてもらいながら、そのにえたつような憤懣《ふんまん》を、犬殺しどもの頭から浴びせかけました。犬殺しどもは恐れ入って顔の色はありません。
「もとはと言えば貴様たちの未熟だ、犬にも劣った畜生め、どうしてくりょう」
 神尾主膳の眼にキラキラと黄色い色が見えたかと思うと、矢庭《やにわ》にその突いていた槍を取り直し、
「馬鹿め!」
 恐れ入っていた長太を覘《ねら》って、胸許《むなもと》からグサとその槍を突き通しました。
「あっ! 殿様!」
 長太は、のたうち廻って苦しみました。その手には胸許を突き貫《ぬ》かれた槍の柄をしかと握り、
「殿様、あんまり……そりゃ」
と言って、あとは言えないで七転八倒の苦しみであります。
「殿様、そりゃ、あんまりお情けのうございます」
 長太の言えないところを長吉が引取って、眼の色を変え犬鎌を持って立ち上るところを、
「汝《おの》れも!」
と言って、長太の胸から抜いた槍で、また長吉の胸をグサと一突き。

 神尾の下屋敷から脱することを得たムク犬は、山へも逃げず、里へも逃げず、首に鎖と縄を引張ったまま只走《ひたばし》りに走って、塩山《えんざん》の恵林寺《えりんじ》の前へ来ると、直ぐにその門内へ飛び込んでしまいました。山へも里へも入らなかったこの犬が、何の心あって寺へ入ったか、犬の心持を知ることはできません。
 街道でも門外でも騒いだように、恵林寺の門内へこの珍客が案内もなく飛び込んだ時には、一山の大衆を騒がせました。
「ソレ狂犬《やまいぬ》だ!」
 庭を掃いていた坊主は、箒を振り上げました。味噌をすっていた納所《なっしょ》は、摺古木《すりこぎ》を担ぎ出しました。そのほかいろいろの得物《えもの》を持って、このすさまじい風来犬《ふうらいいぬ》を追い立てました。門外へ追い出そうとしてかえって、方丈へ追い込んでしまいます。
 一山の大衆は、面白半分にこの犬を追廻すのであります。追われるムク犬は、敢《あえ》てそれに向おうともしない。寧ろ哀れみを乞うようにして逃げるのを、大衆は盛んに追いかけて、あっちへ行った、こっちへ来たと騒ぎ立っています。
 例の慢心和尚はこの時、点心《てんじん》でありました。膳に向って糊《のり》のようなお粥《かゆ》のようなものを一心に食べていました。その食事の鼻先へ、ムク犬が呻《あえ》ぎ呻ぎ逃げ込ん
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