は棒を投げ出して仰向けに倒れる時に、ムク犬は、倒れた長太の身体を乗り越えて前へ出ました。縄にすがっていた長吉は、手球《てだま》のようにそれについて引摺られる。
「長太、どうした」
「長吉、放すな」
長太はいよいよ血迷って、噛まれて倒れながらムク犬の身体を抱きました。長吉が引摺られながらも縄を放さないで苦しがっているのも、長太が半死半生になりつつも、このさい猛犬の身体に噛《かじ》りつこうとするのも、もう周章狼狽の極でありますけれど、一つには彼等はこうして身を以てしても、猛犬を引留めなければならないのであります。
自分たちの手抜かりから猛獣の絆《きずな》を絶ってしまったことは、申しわけのない失敗だけれど、それよりもこの死物狂いの猛犬が、あのお歴々のおいでになるところへ飛び込みでもしようものならば、なんともかとも言い難き椿事《ちんじ》を引起すのであります。
だから彼等としても、周章狼狽の極にありながら、身が粉《こ》になるまでも、その責任に当らねばならぬ自覚に動かされないわけにはゆきません。けれどもそれは無益でありました。抱きついた長太はひとたまりもなく振り飛ばされ、引摺られた長吉は二三間跳ね飛ばされました。
事態穏かならずと見て取った見物の武士たちは総立ちです。
さすがに女子供ではなかったから、犬が狂い出したというて、逃げ迷うものはありませんでしたけれど、事の態《てい》に安からずと思って立ち上りました。
二人の犬殺しを振り飛ばしたムク犬は、一散に走ろうとして――その逃げ場を見廻したもののようでしたけれど、いずれの口も固められて、逃れ出でんとするところのないのを見て、烈しい唸り声と共に両足を揃えて、暫らく立っていました。
「こん畜生!」
二人の犬殺しは、いよいよ血迷うて、手に手に腰に差していた大きな犬鎌を抜いて打振り廻して、噛まれた創《きず》や摺創《すりきず》で血塗《ちまみ》れになりつつ、当途《あてど》もなく犬鎌を振り廻して騒ぎ立つ有様は、犬よりも人の方が狂い出したようであります。
この時、神尾主膳は――よせばよかったのですけれども、来客の手前と、例の通り酒気を帯びていたのだから嚇《かっ》と怒って、真先に自分が長押《なげし》から九尺柄の槍を押取《おっと》りました。自身、手を下すまでのこともなかろうに、憤怒《ふんぬ》のあまり、神尾主膳は九尺柄の槍の鞘を払うと共に、縁の上からヒラリと庭へ飛び下りましたから、
「神尾殿、お危のうござる」
皆が留めたけれども、主膳は留まりませんでした。りゅうりゅうとその槍をしごいて、いま身震いして立ち迷うているムク犬の前に、風を切ってその槍を突き出しました。
神尾主膳といえども武術には、また一通りの手腕のあるものであります。怒りに乗じて突き出す槍が、かなり鋭いものであることは申すまでもありません。
ムク犬は後ろへ退《しさ》ってその槍の鉾先《ほこさき》を避けました。勢い込んだ神尾主膳は、逃《のが》さじとそれを突っかけます。
酒の勢いを仮《か》る主膳の勇気は、一座のお客を歎賞せしめるより、寧《むし》ろその無謀に驚かせました。しかし、主人がこうして出たのに、客も黙って引込んではいられないのであります。ぜひなく刀を押取って主膳の後ろ、或いはその左右から応援に出かけました。錆槍《さびやり》を借りて横合より突っかける者もありました。
ムクが主膳の槍先を避けたのは、或いはこの家の主人に遠慮をして避けたのかも知れません。好んで人に喰いつくものでないことを示すために、最初しかるべき逃げ場を求めていたのかも知れません。しかし、こうなってみてはムクとして、自分の生存のためにも立って戦わなければなりません。その相手の武士であると犬殺しであるとに論なく、牙《きば》に当る限りは噛み散らし、顋《あご》に触るる限りは噛み砕いても、この場を逃れるよりほかはないのであります。
いま猛然と突き出した神尾主膳の槍を、ムク犬はスウッと潜《くぐ》りました。その首には前のように鉄の鎖と麻縄とをひいたままで、槍の上からムク犬は、一足飛びに神尾主膳の頭の上まで飛びました。
「小癪《こしゃく》な!」
主膳は槍を手許につめて、身を沈ませて上から飛びかかるムク犬を、下から突き立てようとしました。その隙《すき》を与えることなく、ムク犬はガブリと神尾主膳の左の肩先へ食いつきました。
「呀《あ》ッ」
神尾は槍を持ったまま後ろへ倒れるのを、それッと言って応援の者が、ムク犬に槍を突っかけました。ムクは転じてその槍をまた乗り越えました。ムク犬は単に勇猛なる犬であったのみならず、女軽業の一座に仕込まれたために、比類なき身の軽さを持っていました。そうしてヒラリ、ヒラリと人の頭の上を飛ぶことは、多くの敵手を悩ますことにおいて有利な戦法であります。
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