あります。
 すでに首へ縄を捲きつけて、その縄を松の枝から通してしまった以上は、さながらムク犬の身体は起重機にかけられたと同じことであります。若干の力で縄の一端を引張りさえすれば、ムク犬は腹を前にして、前足を宙に上げるような仕掛けにされてしまいました。
 ただ例の鎖が捲きつけてあるがために、ある程度より上へは浮かないから、折角捲きつけた首の縄も、ムク犬には更に苦痛を覚えないのであります。だから、次の仕事はどうしても、その鉄の鎖を取外すことでなければなりません。
「なかなか大した鎖だ、合鍵がお借り申してあるから、これで錠前を外すがいい、それ、細引はよく松の樹へ捲きつけておかねえと、鎖を外す拍子に、縄がゆるむと間違えが出来るだ」
 周到な用心と警戒の下に、鎖を外しにかかりました。
 この前後の間におけるムク犬の身体には、更に隙《すき》がありませんでした。四つの足は合掌枠《がっしょうわく》のように剛《つよ》く突っ張って、その眼は間断なく犬殺しどもの挙動を見廻して、その口からようやく唸《うな》りを立てはじめていました。痩せた身体がブルブルと身震いをはじめました。
 広間と縁側とで見物していた武士の連中は、固唾《かたず》を呑みはじめました。犬殺しは、日頃の技倆を手際よく見せようという心であります。武士たちは、前代にもあまり例《ためし》の少ない生きたものの皮剥ぎを、興味を以て見物しようというのであります。ほいと[#「ほいと」に傍点]非人の階級は、頼まれれば生きた人間の磔刑《はりつけ》をさえ請負《うけお》うのであるから、犬なんぞは朝飯前のものであります。また武士たちとても、同じ人間を斬捨てることを商売にしていた時代もあるのだから、たかが生きた犬の皮剥ぎを実地に御覧になるということも、そんなに良心には牴触《ていしょく》しないで、かえって残忍性の快楽をそそるくらいのものでありました。
 もし、犬の代りに生きた人間を使用することができたならば、ここに集まる武士たちのうちの幾人かは、もっと痛快味を刺戟されたかも知れません。さすがにそれはできないから、猛犬を以て甘んずるというような種類《たぐい》もあったでありましょう。
 犬の首から松の枝へかけた細引を、しかと松の大木の幹へグルグルと絡《から》げておいてから、二人の犬殺しは、ムク犬の首に二重三重に繋がれた鉄の鎖を解きにかかりました。一象の力を以てしても断ち切ることのできない鎖も、錠前を以てすれば、軽々と外すことができるのであります。
「それ!」
 長太が外した鎖をガチャリと投げ出した途端に、ムク犬が山の崩れるように吠え出しました。
「失敗《しま》った!」
 細引を手に持っている長吉が、絶望に近い叫びを立てました。
「失敗った!」
 長吉が絶望的の叫びを為した時に、ズルズルとその手に持っていた細引に引摺られて行きます。
「こいつは堪《たま》らねえ」
 長太は狼狽して、長吉の引摺られて行く細引にとりつきました。
 これは本当に思い設けぬ大変でありました。鎖を外した瞬間に、聡明なるムク犬は全身の力を集めて前へ飛び出しました。縄は松ケ枝から幹をズルズルと辷《すべ》って、それを結び直す隙を与えませんでした。縄にすがりついた長吉は、これも全身の力を注いで引き留めようとしたけれど、力に余ってズルズルと引摺られた上に横倒しになりました。それに力を合せようと周章《あわ》てた長太ももろともに引摺られて横倒しになりました。
 前へ飛び出したムク犬の首には、二人のとりすがっている麻縄と、前から繋いであったそれと、たったいま解かれた鉄の鎖とがくっついています。
 麻の縄にとりすがる長吉、長太の二人と鉄の鎖とを引摺って、ムク犬は、口の裂けるような叫びと唸りとを立てました。
「スワ!」
と、広間と縁側とに集まってこの場の体《てい》を見物していた武士たちも、この時に思わずどよめきました。
 いったん、麻縄にとりついて横倒しになった長太は直ぐに起き上りました。長吉はなお必死とその縄にすがりついて引摺られて行きました。起き上った長太は、そこへ並べてあった棍棒《こんぼう》を取り上げて、ムク犬の前に迫り、
「こん畜生!」
 長太はその棍棒を振りかざして、無二無三にムク犬に打ってかかる。長吉は、なお一生懸命に縄にとりついている。縄にとりついている長吉を引摺りながら、前から棒で打ってかかった長太に向って、烈しき怒りと共に、ムク犬は嚇《かっ》と大口をあきました。
「畜生、畜生、畜生」
 たしかにやり損った長太は、夢中になって棍棒を振り上げて、ムク犬を滅多打《めったう》ちに打ちかかりました。けれどもその棒はムク犬の急所に当ることがなく、滅多打ちにのぼせている長太の咽喉の横から、ガブリとムク犬がその巨口を一つ当てましたから、
「呀《あっ》!」
 長太
前へ 次へ
全43ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング