かが一疋の犬だもの。
 こうして遊戯の選手に当るべき犬殺しの来るのを待っている間に、例の長吉、長太の犬殺しが、犬潜《いぬくぐ》りから入って来ました。
 生きながら皮を剥かれてその動物が、なお生きて動けるかどうかというような議論の、非常識であることは申すまでもありません。それを実行せしめようとする神尾主膳らの心持もまた、人間並みの沙汰《さた》ではありません。それを引受けた犬殺しは、商売だから論外に置くとしても、彼等はそれを引受けて、見事やり了《おお》せるつもりで出て来たのか知らん。やり了せても、やり損っても、武士《さむらい》たちの高圧でぜひなくこんな仕事を引受けたものに相違ないのであります。
 それだから彼等には、皮を剥いて、それが生きていようとも死んでしまおうとも、それには責任がなくて、ただ剥ぎぶりの手際の鮮やかなところを御覧に入れさえすれば、義務が済むものと心得ているらしい。
 犬殺しが入って来たのを見ると、主人役の神尾主膳を初めとして、見物の人は緊張しました。犬殺しは遠くの方から、怖る怖る地上へ膝行《しっこう》して集まった人たちを仰ぎ見ることをしないで、犬の方へばかり近寄って行きました。
 さきほどからの物々しい光景を見ていたムク犬は、今日は、いつものように眠そうな眼が、ようやく冴《さ》えてきたようであります。首を立てて集まっている武士たちを、深い眼つきで見つめておりました。
 その有様は、何か事あるのを悟って、いささか用意するところあるもののようにも見えます。
 さて、犬殺しが犬潜りから入って来た時分に、ムク犬の眼が爛《らん》としてかがやきました。
 やや離れたところへ着いた犬殺しは、二人ともに籠《かご》をそこへ下ろして、籠の中から大きな鎌を取り出してまず腰にさし、それから筵《むしろ》を敷いてその上へ尻を卸し、次に籠の中からいろいろの道具を取り出して、道具調べにかかりました。その道具というのは、一束の細引と、鉄製の環《かん》と、大小幾通りの庖丁《ほうちょう》と、小刀と、小さな鋸《のこぎり》などの類《たぐい》であります。
「長太、どうもあの鉄の鎖が邪魔になって仕方がねえな」
 長吉は犬を見ながらこう言って長太を顧みると、長太はもっともという面《かお》をして、
「そうだ、あの鎖を外《はず》してかからなけりゃあ思うようにはやれねえ」
 二人は今に至っても、まだムク犬の首に捲きつけられた二重三重の鉄の鎖を問題にしているのであります。実際、あの鎖があっては、皮を剥きにかかる時に、どのくらい邪魔になるかということは、素人目《しろうとめ》にも想像されることです。
「だからおれは、あいつを外してしまって、その代りにこの環《かん》を首へはめて、細引で松の枝へ吊《つる》しておいて仕事にかかりてえと思うのだ」
「けれども、あのくらいの犬だから、細引じゃあむずかしかろうと思われるぜ」
「ナーニ、大丈夫だ、こいつを二重にして引括《ひっくく》れば何のことはあるものか」
「じゃあ、そういうことにしよう、いちばん先に口環《くちわ》をはめるんだな、口環を」
 用意して来た革製の口環を取って二人が、やがてムク犬の方へ近寄りますと、今まで伏していたムク犬がこの時に立ち上りました。
「やい畜生、温順《おとな》しく往生しろよ」
 二人の犬殺しは尋常の犬殺しにかかるつもりで、左右から歩み寄って、一人は例の握飯《むすび》を投げて、一人は投網《とあみ》を構えるように口環を拡げて、
「それ、こん畜生、口をこっちへ出せ」
 呼吸を計って両方から、ムク犬を伸伏《のっぷ》せるようにして口環をはめようとすると、ムク犬は猛然としてその痩《や》せた身体を左右に振りました。
「危ねえ、こん畜生」
 二人の犬殺しはその勢いに狼狽したが、
「こいつはいけねえ、どうしても首を松の木へ吊り下げておいてからでねえと」
 二人の犬殺しは、手際よく口環をはめてしまうつもりであったところが意外の手強《てごわ》さに、やや当《あて》が外れて、まずどうしても松の枝へ縄をかけて、首を或る程度まで締め上げておいてから、仕事にかからねばならぬと覚《さと》りました。
 麻縄の細引へ輪をこしらえ、それをムク犬の首へ投げかけること、それは近寄って口環をはめることよりも遥かに容易《たやす》い仕事でもあり、充分の熟練を持っておりました。
 難なくムク犬の首を麻縄で括《くく》って、それを松の枝へ引き通して、悠々と引き上げにかかりました。けれども、不幸にして、最初から捲いてあった二重三重の鉄の鎖が取れていないのだから、ある程度までしか引き上げることはできません。
 彼等の目的は、こうして首をしめてしまわない程度において、後足で直立するほどに犬の首を引き上げて、前へ廻って腹を見られるくらいにして置いて、仕事にかかろうというので
前へ 次へ
全43ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング