けれど、底を割らぬうちが一興じゃと思うて、こうして連れて来た。お松どのを、御老女の手許までお世話を頼んだのは拙者の計らい、その顛末《てんまつ》は、ゆっくりとお松どのの口から聞いたがよい。今宵は当家へ御厄介になってはどうじゃ、拙者も当分この家へ居候《いそうろう》をするつもりだ」
 そこでお松は兵馬を別間へ案内して、それから一別以来のことを洩《も》れなく語って、泣いたり笑ったりするような水入らずの話に打解けることができたのは、全く夢にみるような嬉しさでありました。
 こうして二人は無事を喜び合った後に、さしあたって、兵馬の思案に余るお君の身の上のことに話が廻って行くのは自然の筋道です。
 甲府における駒井能登守の失脚をよく知っているお松には、一層、お君の身が心配でたまりませんでした。なんにしてもそれが無事で、この近いところへ来て、兵馬に保護されているということは、死んだ姉妹が甦《よみがえ》った知らせを聞くのと同じような心持であります。
 そうして二人が思案を凝《こ》らすまでもなく、今のお君の身の上を、当家の老女にお頼みするのが何よりも策の得たものと考えついたのは、二人一緒でした。
 兵馬は、ようやくに重荷を卸《おろ》した思いをしました。お松の話を聞いてみれば、若い女を預けて、少しも心置きのないのは実にこの老女である。求めて探しても斯様《かよう》な親船は無かろうのに、偶然それを発見し得たことの仕合せを、兵馬は雀躍《こおどり》して欣《よろこ》ばないわけにはゆきません。
 その夜は南条と共にこの家に枕を並べて寝《い》ね、翌朝早々に兵馬は王子へ帰りました。帰って見ればあの事件。
 しかし、幸いにお君の身の上は無事で、兵馬と共に扇屋を引払って落着いたところが、この家であることは申すまでもありません。

         十

 ここに例の長者町の道庵先生の近況について、悲しむべき報道を齎《もたら》さねばなりません。
 それはほかならぬ道庵先生が不憫《ふびん》なことに、その筋から手錠三十日間というお灸《きゅう》を据《す》えられて、屋敷に呻吟《しんぎん》しているということであります。
 道庵ともあるべきものが、なぜこんな目に逢わされたかというに、その径路《すじみち》を一通り聞けば、なるほどと思われないこともありません。
 道庵の罪は、単に鰡八《ぼらはち》に反抗したというだけではありませんでした。鰡八に反抗したということだけでは、決して罪になるものではありません。ただその反抗の手段が、いささか常軌を逸しただけに、その筋でも、どうも見逃し難くなったものと見なければなりません。
 道庵先生の隣に鰡八大尽の妾宅があることは、廻り合せとは言いながら、どうしても一種の皮肉な社会現象であると見なければなりません。それで道庵が兄哥連《あにいれん》を狩催《かりもよお》して馬鹿囃子《ばかばやし》をはじめると、大尽の方では絶世の美人を集めたり、朝鮮の芝居を打ったりして人気を取るのであります。
 しかしながら道庵の方は、何を言うにも十八文の貧乏医者であります。鰡八の方は、ほとんど無限の金力を持っているのだから、ややもすれば圧倒され気味であることは、道庵にとって非常に同情をせねばならぬことであります。
 また一方では、大尽のお附の者共が、盛んに手を廻して、道庵のあたり近所の家屋敷を買いつぶすのであります。そうしてそれをドシドシ庭にしたり、御殿にしたりして、今は道庵の屋敷は三方からその土木の建築に取囲まれて、昼なお暗き有様となってしまいました。
 このごろでは、道庵は毎日毎日屋根の櫓《やぐら》の上へ上って、その有様を見て腹を立っていました。そのうちにも何かしかるべき方案を考えて、朝鮮芝居以来の鬱憤を晴らしてやろうと、寝た間もそれを忘れることではありませんでした。
 勝ち誇った鰡八側では、これであの貧乏医者を凹《へこ》ましたと思って、一同が溜飲を下げて当り祝などをして、その後は暫らく表立った張り合いがありませんでした。鰡八の方はそれで道庵が全く閉口したものと思い、事実において敵が降参してしまった以上は、それを追究がましいことをするのは大人気《おとなげ》ないと思ってそのままにし、近所へは甘酒だの餅だのをたくさんに配り物をしましたから、さすがは大尽だといって、住宅を買いつぶされた人たちも、あまり悪い心持をしませんでした。すべてにおいて大尽側のすることは、人気を取るのが上手でありました。
 焉《いずく》んぞ知らん。この間にあって道庵先生は臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の思いをして、復讐の苦心をしていたのであります。
 夜な夜な例の櫓《やぐら》へ上っては、ひそかに天文を考え、地の理を吟味して、再挙の計画が、おさおさ怠りがありませんでした。
 それとは知らず鰡八大尽《ぼらはちだいじん》
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