れているはずなのに、絶えて吠えることをしないから、誰もここにこの犬が繋がれていることをさえ、外では知っている者はないようです。
たまたま附近の野良犬がこの屋敷へ入り込んで、なにげなくこの近いところへ来て、松の樹の下にムク犬の姿を認めると、急にたじろいで、尾を股の間に入れて逸早《いちはや》く逃げ出すくらいのものでありました。
ムクが吠えないのは、吠えても無益と思うからでありましょう。吠えてみたところで、今やこの甲府の界隈《かいわい》には、自分の声を理解してくれるものがないと諦めているためかも知れません。それが無い以上は、いかに自分の力を恃《たの》んだところで、馬場美濃守以来という老木を、根こぎにすることは不可能であるし、大象をも繋ぐべきこの二重三重の鎖を、断ち切ることも不可能であることを、徐《おもむ》ろに観念しているためでありましょう。
こうしてムク犬が沈黙していると、或る日この屋敷の裏口から、怖る怖る入って来た二人の男がありました。
「へえ、御免下さいまし、御本宅の方から頼まれてお犬を拝見に上りました、どなたもおいではございませんか。おいでがございませんければ、お許しが出ているんでございますから、御免を蒙ってお庭先へお通しを願いまして、お犬を拝見が致したいのでございますが、どなたもおいではございませんでございますか」
二人の男は、極めて卑下《ひげ》した言葉で屋敷の中へ申し入れましたけれども、誰も返事をする者がありませんから、そのまま怖る怖る庭の中へ入って行きました。
この二人の男の風態《ふうてい》を見ると、二人ともに古編笠を冠《かぶ》っていました。二人ともに目の細かい籠《かご》を肩にかけて、穢《よご》れた着物を着て、草鞋《わらじ》を穿《は》いていました。籠の中に数多《あまた》の雪駄《せった》を入れたところ、言葉つきの卑下しているところや、態度のオドオドしているところなどを見れば、一見してこれは雪駄直しか、犬殺しかの種類に属する人間たちであることがわかります。
「へえ、御免下さいまし、お犬を拝見に出ましてございます」
誰も挨拶をするものがないのに、卑下した言葉をかけながら、泉水、池、庭を怖る怖る通って、例の馬場の松の大木の下までやって来ました。
「長太、これだこれだ、ここにいたよ、ここにいたよ」
二人はたちどまって、やや遠くからムク犬の姿をながめて指さし
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