いことを、残念にも怨みにも、お君は一人でハラハラする胸を押えていました時に、帳場から一封の手紙を届けてきました。その手紙が宇津木兵馬宛になっていることを知って、ともかくも自分が預かることにする。まもなく宇津木兵馬は、一人で立帰って来ました。
 昨夜の出来事を聞いて驚いた上に、さきほど預けられた手紙を渡されてそれを読むと、急いでいずれへか出かけました。
 兵馬の出かけた先は、かの火薬製造所に駒井甚三郎を訪ねんためでありました。いつものところに来ておとのうてみたけれども、もうその人はそこにおりません。誰に尋ねてみることもできず、尋ねてみても知っている人はありません。
 兵馬は空しく先刻の手紙を繰展《くりの》べて読んでみると、簡単に、
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「感ずるところあって、当所を立ち退く、行先は当分誰にも語らず、後事よろしく頼む」
[#ここで字下げ終わり]
というだけの意味であります。
 駒井甚三郎はついにどこへ向けて立去ったか知ることができません。なにゆえに左様に事を急に立去らねばならなくなったのか、推察するに苦しみました。或いはその企てている洋行の機が迫ったために、こうして急に立去ったものかとも思われるが、どうも文面によるとそればかりではないらしく思われる。
 その日のうちに、宇津木兵馬もお君を連れて、扇屋を引払ってしまいました。

         八

 甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の、神尾主膳の別邸の広い庭の中に盤屈《ばんくつ》している馬場の松の根方に、もう幾日というもの、鉄の鎖で二重にも三重にも結びつけられている一頭の猛犬がありました。
 これは間《あい》の山《やま》のお君にとっては、唯一無二の愛犬であったムク犬であります。影の形に添うように、お君の後ろにもムク犬がなければならなかったのに、それが向岳寺の尼寺から、滝の川の扇屋に至るまで、あとを追った形跡の無いということは寧《むし》ろ不思議であります。
 ムク犬を捕えて離さないのは、この馬場の松の老木と、それに絡《から》まる二重三重の鉄の鎖でありました。
 松の樹の下に繋がれているムク犬には、誰も食物を与えるものがないらしくあります。
 それ故に、さしもの猛犬が、いたく衰えて見えます。真黒い毛が縮れて、骨が立っています。前足を組んで、首を俛《た》れて沈黙しています。
 もうかなり長いこと、ここに繋が
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