したが、その眼には涙がいっぱいであります。
「ともかくも」
と言って兵馬は、その二品を前へ出したきりで腕を組んでいました。兵馬の胸にも実は、思い余ることがあるのであります。
「宇津木様、どうぞ殿様のお言葉をお聞かせ下さりませ、縁を諦《あきら》めよと、それが殿様のお言葉でござりましたか」
「能登守殿は、そうはおっしゃらぬ。そうはおっしゃらぬけれど」
「わたくしが殿様から前のようなお情けをいただきたいために、こうして恥を忍んで上りましたものか、どうか、それを御存じないあなた様が恨《うら》めしい」
「それは拙者にもわかっているし、能登守殿も御諒解であるが……」
「それならば、お言葉をお聞かせ下さりませ。わたくしは賤《いや》しいものでござりまするけれど、殿様のお家には二つとないまことのお血筋……そのお血筋がおいとしいために恥を忍んで上りました、殿様のお言葉一つによって、わたくしはこの場で死にまする」
「またしても短気なことを……」
「いいえ、短気なことではありませぬ、わたくしの小さい胸で、考えて考え抜いた覚悟の上でござりまする。殿様のお言葉次第によって、わたくしもこの世にはおられませぬ、恐れ多い殿様のお血筋を、わたくしと一緒にあの世へおつれ申すのが不憫《ふびん》でござりまする、それ故に……」
お君は歔欷《しゃく》り上げて泣きました。
「能登守殿は近いうち、洋行なさるというておられた」
兵馬は要領をそらして、何とつかずにこう言いました。
「洋行なさるとは?」
「この日本の土地を離れて、遠い外国へおいであそばすそうじゃ」
「エエ、遠い外国へ?」
お君は涙を払って兵馬の面《かお》を見つめました。問い返す言葉にも力がありました。兵馬が何とつかずに言ったことが、お君の胸には手強い響きを与えたもののようであります。
「能登守殿がおっしゃるには、自分はもう今の世では望みのない身体じゃ、この隙《ひま》に西洋を見て来たい、いずれ万事は帰ってから後のこと。君女《きみじょ》のことも、どうしてやってよいか自分にはわからぬ、そなたの思うように保護してくれいとのお言葉。帰りは長くて一年、或いはまた……」
「よくわかりました」
兵馬の説明をお君はキッパリと返事をしました。兵馬の重ねて説明することを必要とせぬほどに、キッパリと言い切ってしまいました。
「もうお聞き申すこともござりませぬ、殿様は前か
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