くなってしまったよ」
「そうかい」
「おじさんが帰って来たから、おいらたちもこの家の中へ入って遊んでいいんだろう」
「そうはいかねえ」
「どうして」
「もうここは俺らの家じゃねえんだ」
「おじさんの家はどこなの」
「俺らの家か、俺らの家は下谷の方だ」
「遠いんだね、もっと近いところへ越しておいでよ」
「うむ」
「おじさん、槍を持って来なかったのかい」
「うむ」
「持って来ればいいに。みんな、このおじさん知ってるかい、背が低いけれど槍が上手なんだよ」
「知ってまさあ。家のチャンなんぞも、そいってらあ、槍でもってここの家へ入った浪人者を追い飛ばしたんだね、おじさん」
「うむ」
「えらいね、おじさんは見たところ、子供のように見えるけれど、あれで子供じゃねえんだって、家のお母アもそいってたよ」
「そうだよ、おじさんは背が低くって可愛いところがあるけれど、あれで年食《としくら》いなんだって。おじさん、幾つなんだい、教えて頂戴よ」
「うむ」
「またおじさんが槍を持って、ここの番人に来てくれるといいなア、そうすると毎日遊びに来られるんだけれど」
「あたいは、おじさんが来たら槍を教えてもらおうや、そうして槍の名人になりたいなあ」
 米友はこれらの子供連に取巻かれてワイワイ言われていました。子供連はよく米友を覚えているし、その親たちまでがいまだに米友のことを評判しているのも、その言葉によってうかがわれるのであります。それだから米友は、これらの子供連を路傍の人とも思えないでいると不意に、近いところでけたたましい物音がすると共に、わーっと子供の泣く声です。
「そーれ、金ちゃんちの三ちゃんが井戸へ落っこった!」
「ああ、金ちゃんちの三ちゃんが井戸へ落っこってしまったア」
 今まで米友を取巻いていた子供連が、面《かお》の色を変えて叫び出し、河岸に近いところの車井戸の井戸側へ集まりました。
 今の物音でも知れるし、子供の泣き声でもわかる。確かに、たった今この井戸の中へ陥《はま》った子供があることは疑う余地がありません。
 それを見るや米友は、首根っ子に結《ゆわ》いつけていた風呂敷包をかなぐり捨てて、直ちに井戸側へとりつきました。井戸側へとりついていた時は早や、その棒縞《ぼうじま》の仕立下ろしの着物をも脱ぎ捨てて裸一貫になっていました。裸一貫になったかと思うと、車井戸の釣縄《つりなわ》の一方をあ
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