あいだ人を欺き、自らを欺いたことの記憶を呼び起してその良心に恥かしくなった、それのみではありません。
ここへ来るとお君のことが思い出され、甲州へ置いて来たお君の面影が、強い力で米友の心を押えてきたから、
「うーむ」
と言って米友は、突立ったなりで歯を食いしばりました。
「うーむ」
今はここへ来て、それがいつもするよりは一層烈しい心持になって、歯を食いしばって唸《うな》ると共に身震いをしました。
「能登守という奴が悪いんだ、あいつがお君を蕩《たら》したから、それであの女があんなことになっちまったんだ、御支配が何だい、殿様が何だい」
米友は、傍《かたわら》へ聞えるほどな声で唸りながら独言《ひとりごと》を言っています。お君のことを思い出した時の米友は、同時に必ず能登守を恨むのであります。何も知らないお君を蕩して玩《もてあそ》びものにしたのは、憎むべき駒井能登守と思うのであります。
大名とか殿様という奴等は、自分の権力や栄耀《えいよう》を肩に着て、いつも若い女の操《みさお》を弄び、いい加減の時分にそれを突き放してしまうものであると、米友は今や信じきっているのであります。その毒手にかかって甘んじて、その玩び物となって誇り顔しているお君の愚かさは、思い出しても腹立たしくなり、蹴倒してやりたいように思うのであります。
こうして米友はお君のことを思い出すと、矢も楯も堪らぬほどに腹立たしくなるが、その腹立ちは、直ぐに能登守の方へ持って行ってぶっかけてしまいます。能登守を憎む心は、すべての大名や殿様という種族の乱行を憎む心に、滔々《とうとう》と流れ込んで行くのであります。そのことを思い返すと米友は、甲府を立つ時に、なぜ駒井能登守を打ち殺して来なかったかと、歯を鳴らしてそれを悔《くや》むのでありました。能登守を打ち殺せば、それでお君の眼を醒《さ》まさせることもできたろうにと思い返して、地団駄《じだんだ》を踏むのでありました。
米友の頭では、今でもお君はさんざんに能登守の玩《もてあそ》び物になって、いい気になっているものとしか思えないのであります。間《あい》の山《やま》時代のことなんぞは口に出すのもいやがって、天晴《あっぱ》れのお部屋様気取りですましていることは、思えば思えば業腹《ごうはら》でたまらないのであります。
短気ではあったけれども、曾《かつ》て僻《ひが》んではいなか
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