》はないのであります。ともかくも、久しぶりで江戸へ出たのだから、御無沙汰廻りをしてみようかと思いましたけれど、それとても、米友が面を出さねばならぬほどの義理合いのあるところは一軒もないのであります。
何心なく歩いて来ると、佐久間町あたりへ出ました。ここで米友は去年のこと、こましゃくれ[#「こましゃくれ」に傍点]た若い主人の忠作のために使い廻されて、飛び出したことを思い出しました。あの時の女主人は甲府へ行っているはずだけれど、あの若いこましゃくれ[#「こましゃくれ」に傍点]た旦那はどうしているか、小癪《こしゃく》にさわる奴だと今もそう思って通りました。
やがて昌平橋のあたりへ来ると、例の貧窮組の騒ぎに自分も煙《けむ》に捲かれて、あとをついて歩いた光景を思い出しました。昌平橋も無意味に渡って、これもなんらの目的もなく柳原の土手の方へ向った時に、ここで変な女に呼び留められたことと、その女が自分の落した財布を拾っておいてくれたことを思い出しました。
「そうだ、あの女はお蝶と言ったっけ、あれでなかなか正直な女だ、あの女の親方という奴もなかなか親切な奴で、俺《おい》らを暫く世話をしてくれたんだ。ああして恩になったり、世話になったりしたところへ、江戸へ来てみれば面出《かおだ》しをしねえというのは義理が悪い。さて今日はこれから、あの家へ遊びに行ってやろうか知ら、本所の鐘撞堂《かねつきどう》で相模屋《さがみや》というんだ、よく覚えてらあ」
ここで米友の心持がようやく定まりました。本所の鐘撞堂の相模屋という夜鷹《よたか》の親分の許へ、米友は御無沙汰廻りに行こうという覚悟が定まったのであります。
手ぶらでも行けないから、何か手土産を持って行きたいと、米友も相当に義理を考えて、何にしようかとあっちこっちを見廻しながら歩いているうちに、柳原を通り越して両国に近い所までやって来てしまいました。
「両国!」
と気がついた米友は、全身から冷汗の湧くように思って身を竦《すく》ませました。両国は米友にとっては、よい記憶のある土地ではないのであります。よい記憶のある土地でない上に、そこへ来るとむらむらとして一種いうべからざるいやな感じに襲われてしまいました。
両国に近いところへ来て米友が、むらむらと不快な感に打たれて堪《たま》らなくなったのは、それは前にもここで心ならず印度人に仮装して、暫くの
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