んなさい、早く来てごらんなさいよ」
「どうしたの、お鶴さん」
「あれ、あそこをごらんなさい」
「まあ」
「ありゃ人間でしょうか、猿でしょうか」
「そりゃ人間さ」
「あの面《かお》をごらんなさい」
「おお怖《こわ》い」
「でも、どこかに可愛いところもあるじゃありませんか」
「子供でしょうかね」
「なんだかお爺さんみたようなところもあるのね」
「あれはお前さん、こっちをじっと見ているよ、睨めてるんじゃないか」
「怖いね」
「怖かないよ、子供だよ」
 小間使が二人寄り三人寄り、ほかの女中雇人まで追々集まって、米友の面を指していろいろの噂《うわさ》をしているのが米友の耳に入りました。
「やい、そこで何か言っているのは、俺《おい》らのことを言ってるのか」
 米友はキビキビした声で叫びました。
「それごらん、おお怖い」
 米友に一喝《いっかつ》された女中たちは、怖気《おぞげ》をふるって雨戸を締めきってしまいました。それがために米友も、張合いが抜けて喧嘩にもならずにしまったのは幸いでありました。
 やや暫らくして櫓の上から下りて来た米友を、道庵は声高く呼びましたから、米友が行って見ると、道庵は例の通り手錠のままでつく[#「つく」に傍点]然《ねん》と坐っていましたが、米友に向って、暇ならば日本橋まで使に行って来てくれないかということでありました。米友は直ぐに承知をしました。そこで道庵の差図によって米友は、日本橋の本町の薬種問屋へ薬種を仕入れに行くのであります。
 仕入れて来るべき薬種の品々を道庵は、米友に口うつしにして書かせました。それに要する金銭の上に道庵は、若干の小遣銭《こづかいせん》を米友に与えて、お前も江戸は久しぶりだからその序《ついで》に、幾らでも見物をして来るがよいと言いました。日のあるうちに帰って来ればよろしいから、しこたま[#「しこたま」に傍点]道草を食って来いという極めて都合のよい使を言いつけました。
 米友はその使命を承って、風呂敷包を首根っ子へ結びつけて、仕立下ろしの袂のある棒縞の着物を着て、長者町の屋敷をはなれました。本来、使そのものは附けたりで、恩暇《おんか》を得たようなものだから、米友は使の用向きは後廻しにして、帰りがけに本町へ廻って薬種を仕入れて来ようとこう思いました。
 どこへ行こうかしら、暇はもらったけれども米友には、まだどこへ行こうという当《あて
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