は、目を驚かすばかり新築の家と庭とで囲まれていました。何の恨みあってのことか知らないが、これでは先生が癇癪《かんしゃく》を起すのももっともだと、米友にも頷《うなず》かれたのであります。
 鰡八というのはいったい何者であろうと米友は、その御殿の方を睨みつけましたけれど、その時は雨戸を締めきってありました。これはあの時の騒ぎから、ともかく道庵を手錠町内預けまでにしてしまったのだから、鰡八の方でも寝醒《ねざめ》が悪く、多少謹慎しているものと思われます。
 米友には、敢《あえ》て金持だからといって特にそれを悪《にく》むようなことはありません。また身分の高い人だからといって、それを怖れるようなこともありません。恩も恨みもない鰡八だけれど、わが恩人である道庵を虐待して、手錠にまでしてしまった鰡八と思えば、無暗ににくらしくなってたまりませんでした。
 道庵が鰡八に楯をつくのは、それはほんとうに業腹《ごうはら》でやっているのだか、または面白半分でやっているのだかわからないのであります。ことに米友をけしかけたことなどは、たしかに面白半分というよりも、面白八分でやったことに相違ないのを、米友に至るとそれをそのままに受取って、憎み出した時はほんとうに憎むのだから困ります。
 そうして鰡八という奴の面《つら》は、どんな面をしているか、一目なりとも見てやりたいものだと余念なく櫓の上に立っていると、どうした機会《はずみ》か、今まで締めきってあった雨戸がサラリとあきました。
 米友は、ハッと思ってその戸のあいたところを見ました。米友が心で願っている鰡八が、或いは幸いにそこへ面《かお》を出したものではないかと思いました。しかし、それは間違いであって、戸をあけたのは十五六になろうという可愛い小間使風の女の子でありました。
「おや」
 その女の子は、戸をあける途端に道庵の家の屋根を見て、その櫓の上に立っている米友に眼がつきました。米友が例の眼を丸くしてそこに立ち尽しているのを見た女の子は、吃驚《びっくり》して少しばかりたじろぎました。
 それから、少しばかり引き開けた戸の蔭に隠れるようにして、再び篤《とく》と米友の面《かお》をながめていましたが、
「オホホホホ」
と遽《にわ》かに笑い出しました。それは小娘が物におかしがる笑い方で、ついにはおかしさに堪えられず腹を抱えて、
「ちょいと、お徳さん、来てごら
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