で来ました。
「そーれ、そっちへ行った」
「やーれ、こっちへ行った」
 箒坊主や、味噌摺坊主《みそすりぼうず》は、いよいよ面白がってここまで追い詰めて来ると、
「何だ何だ、やかましい」
 慢心和尚は、大きな声で右の坊主どもをたしなめます。
「和尚様、狂犬《やまいぬ》が飛び込みましたぜ、西の方から牢破りをして逃げた狂犬ですぜ、それが今、このお寺の中へ逃げ込んでしまいました、だからこうして追い飛ばしているのでございます」
「よけいなことをするな、そんなことをする暇に、味噌でもすれ」
 慢心和尚は、群がっている大坊主や小坊主を叱り飛ばして、
「クロか、クロか、さあ来い、来い」
と言って手招ぎました。
 人に狎《な》れることの少ないムク犬が、招かれた慢心和尚の面《かお》をじっと見つめながら、尾を振ってそこへキチンと跪《かしこ》まったのは、物の不思議です。
「狂犬であるか、狂犬でないか、眼つきを見ればすぐわかるじゃ、この犬を狂犬と見る貴様たちの方に、よっぽどヤマしいところがある」
 慢心和尚は、こんな苦しい洒落《しゃれ》を言いながら、いま食べてしまった黒塗のお椀を取って、傍にいた給仕の小坊主に、
「もう一杯」
と言ってお盆の上へそのお椀を載せました。小坊主が心得て、いま食べたと同じような、お粥のような糊のようなものをそのお椀に一杯よそって来ると、
「南無黒犬大明神」
と言って推《お》しいただいて、恭《うやうや》しく座を立って、ムク犬の前へ自身に持って来ました。
 そのお椀を目八分に捧げて、推しいただいて持って来る有様というものが馬鹿丁寧で、見ていられるものではありません。
「南無黒犬大明神様、何もございませんが、これを召上って暫時のお凌《しの》ぎをあそばされましょう」
 縁のところへさしおいて、犬に向って三拝する有様というものは、正気の沙汰ではありません。
 しかしながら、なお不思議なことは、神尾の下屋敷で、何を与えられても口を触れることだにしなかったムク犬が、この一椀のお粥とも糊ともつかぬものを、初対面の慢心和尚から捧げられると、さも嬉しげに舌を鳴らして食べはじめたことであります。

         九

 これより先、浪人たちに怨《うら》まれて、両国橋に梟《さら》された本所の相生町の箱屋惣兵衛の家が、何者かによって買取られて、新たに修復を加えられて、別のもののようになり
前へ 次へ
全86ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング