馬鹿者」
主膳は肩先に療治を受けて布を捲いてもらいながら、そのにえたつような憤懣《ふんまん》を、犬殺しどもの頭から浴びせかけました。犬殺しどもは恐れ入って顔の色はありません。
「もとはと言えば貴様たちの未熟だ、犬にも劣った畜生め、どうしてくりょう」
神尾主膳の眼にキラキラと黄色い色が見えたかと思うと、矢庭《やにわ》にその突いていた槍を取り直し、
「馬鹿め!」
恐れ入っていた長太を覘《ねら》って、胸許《むなもと》からグサとその槍を突き通しました。
「あっ! 殿様!」
長太は、のたうち廻って苦しみました。その手には胸許を突き貫《ぬ》かれた槍の柄をしかと握り、
「殿様、あんまり……そりゃ」
と言って、あとは言えないで七転八倒の苦しみであります。
「殿様、そりゃ、あんまりお情けのうございます」
長太の言えないところを長吉が引取って、眼の色を変え犬鎌を持って立ち上るところを、
「汝《おの》れも!」
と言って、長太の胸から抜いた槍で、また長吉の胸をグサと一突き。
神尾の下屋敷から脱することを得たムク犬は、山へも逃げず、里へも逃げず、首に鎖と縄を引張ったまま只走《ひたばし》りに走って、塩山《えんざん》の恵林寺《えりんじ》の前へ来ると、直ぐにその門内へ飛び込んでしまいました。山へも里へも入らなかったこの犬が、何の心あって寺へ入ったか、犬の心持を知ることはできません。
街道でも門外でも騒いだように、恵林寺の門内へこの珍客が案内もなく飛び込んだ時には、一山の大衆を騒がせました。
「ソレ狂犬《やまいぬ》だ!」
庭を掃いていた坊主は、箒を振り上げました。味噌をすっていた納所《なっしょ》は、摺古木《すりこぎ》を担ぎ出しました。そのほかいろいろの得物《えもの》を持って、このすさまじい風来犬《ふうらいいぬ》を追い立てました。門外へ追い出そうとしてかえって、方丈へ追い込んでしまいます。
一山の大衆は、面白半分にこの犬を追廻すのであります。追われるムク犬は、敢《あえ》てそれに向おうともしない。寧ろ哀れみを乞うようにして逃げるのを、大衆は盛んに追いかけて、あっちへ行った、こっちへ来たと騒ぎ立っています。
例の慢心和尚はこの時、点心《てんじん》でありました。膳に向って糊《のり》のようなお粥《かゆ》のようなものを一心に食べていました。その食事の鼻先へ、ムク犬が呻《あえ》ぎ呻ぎ逃げ込ん
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