を破られたのもあったけれど、すぐにまた例の道庵先生かと思って、わざわざ起きて様子を見届けようとするものもありませんでした。けれども当の鰡八大尽の家では、その大きな声で驚かされないわけにはゆきませんでした。殊に時めく大尽に向って、鰡八、鰡八、と言って横柄《おうへい》に頭から呼びかけるような人は、滅多にないはずなのであります。
ちょうどその高楼の二階の一間で、急病に苦しんでいた鰡八大尽は、いま少しばかりその苦しみが退《ひ》いたので、附添のものもホッと息をついているところへ、外の闇の中から、いずこともなくこの突拍子もない大音で、
「鰡八、鰡八」
と呼びかけたのが耳に入りました。
「あれは誰だ」
と、それが大尽の耳ざわりになったのは、道庵先生にとっては誂向《あつらえむ》きであったけれど、並んでいた人たちにとっては、身体を固くするほどの恐縮なのであります。何かにつけてごまかそうとしている時に、またしても、
「鰡八、鰡八」
と破鐘《われがね》のような大きな声で、続けざまに呼び立てる声がします。
「あれは誰だ」
急病は一時は落着いたけれど、この声で大尽の落着きが乱れて来るようであります。鰡八、鰡八と、事もなげに自分を呼び捨てる怪物が外にあると思えば、よい心持はしないらしくあります。それが怪物であるならば、まだよいけれど、人間であるとしてみれば、打捨ててはおかれないのであります。大尽はその声のする方を睨めていると、
「気狂《きちが》いでございます」
さきに道庵先生のところへ使者に行って逃げ帰ったのが、恐る恐る大尽に向ってこう言いました。
「隣の屋根の上あたりでする声のようだ、隣はいったい何者が住んでいるのだ」
大尽は耳をすまして、なおその声を聞こうとしながら附添の者にたずねると、
「貧乏医者でございます、貧乏な上に気違い同様な奴でございます」
「怪《け》しからん、ナゼ早く買いつぶして立退かせないのだ」
「それがどうも……」
大尽の御機嫌が斜めになるのを、附添の者はハラハラしていると、
「鰡八、病気はどんな塩梅《あんばい》だ、ちっとは落着いたかい」
屋根の上でこういう大きな声がしました。
「怪しからん」
「鰡公」
「憎い奴だ」
「鰡公よく聞け、手前は貧乏人からそれまでの人間になった男だから、ともかくも物の道理はわかるだろう、手前の廻りにいて胡麻《ごま》を摺《す》っている奴
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