その二箇とても、なにも嫌《いや》で残したわけではない、食べたくて食べたくてたまらないのだけれど、それをなるべくうまく食べようと思って、わざわざ途中で休んで水を汲みに行ったものであります。その取って置きの二箇の握飯、しかも胡麻《ごま》のついた大きなのが、わずかの間に消えてなくなっていたのだから、さすがの米友も力を落さないわけにはゆきません。
 しかし、米友の気象《きしょう》として、一時は力を落しても、そのまま引込んでいることはできないのであります。
「太え奴だ、誰が盗《と》りやがった、人の大切の胡麻のついた握飯《むすび》を盗んだ奴はどこにいる、こっちは嫌で残しておいたんじゃねえや、これから水を一杯《いっぺい》飲みながら、旨《うま》く食べようと思って取って置いたんだ、それを持主に黙って盗った奴はどこにいる、遠くへ逃げる隙があるわけでねえから、どこかそこらにいやがるんだろう、この堂の中か、堂の後ろあたりに隠れていやがるだろう、やい、人の大切の胡麻のついた握飯《むすび》を盗った奴はどこにいる、ここへ出て来い」
 米友は眼をクルクルして堂の中や、堂の後ろを見廻したけれども、人の気配は無いのであります。それで米友も、怒ってはみたけれど、拍子抜けのようでもあり、自分ながら解《げ》せないのであります。人通りの多かるべきところでもないこの山路で、こんなにすばしっこく握飯を掠《かす》められようとは、米友としても思い設けぬことでもあり、ことにその傍には、ほかに荷物を入れた風呂敷包もあれば、笠や杖もあるのに、それらには眼も触れないで、握飯だけを取って行ってしまったのは、よほど食辛棒《くいしんぼう》の泥棒か、そうでなければ、飢えに迫っての旅人の仕業《しわざ》としか思われないのであります。そのいずれにしても、この僅かの間にそれをせしめるというのは、敏捷を以て誇りとする米友には、癪《しゃく》な芸当であると思いましたから、米友は、一旦は怒って、それから後は空《むな》しく竹の皮の亡骸《なきがら》を見つめて思案に暮れていました。
 米友はじっと腕組みをして思案に暮れている時に、頭の上の栗の大樹の梢で、
「キャッキャッ」
という声。米友が頭を上げるとその大樹の幹に、一群の動物がいることを知りました。
「畜生、こいつら、手前《てめえ》たちの仕業だな」
 米友はそれを見るより勃然として怒りました。見上げる栗の大樹の梢にたかっている一群の動物は猿であります。その猿どもが、大切の胡麻のついた握り飯を持って、それを一口食っては米友に見せ、二口食っては米友に見せているのであります。それからほかの猿はまた尻を米友の方へ向けてバタバタ叩いたり、木の枝を揺《ゆす》ったりして、しきりに米友に向って挑戦をするらしいのであります。
「畜生!」
 米友は歯噛《はがみ》をしました。僅かの間に畜生どもにばかにされたかと思うと、米友の気象ではたまらないのであります。直ちに手慣れた杖を取り上げましたけれど、不幸にして彼等はあまり高いところにいるのであります。さすが手練の米友の槍も、距離においてどうすることもできません。
「よし、こん畜生!」
 米友は杖を捨てて石を拾いました。拾った時、石はすでに空《くう》を飛んでいました。
 その覘《ねら》いは過つことなく、米友が石を拾ったかと思うと、ほとんど一緒に、
「キャッ」
と叫ぶ声が樹の上でして、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》という音が米友の足許でしました。
「こん畜生」
 その時、米友は一匹の大猿の首筋を後ろからギュウと抑えて、膝の下へ組み敷きました。抑えられた猿は苦しさに絶叫したけれど、浅ましいことに、胡麻のついた握飯《むすび》をその手から放すことではありません。
「手前たちは憎らしい畜生だ」
と言って米友は、猿の頭を二つ三つぶんなぐりました。猿は殺されることかと思って、苦叫絶叫して悶掻《もが》いたけれど、米友は懲《こ》らしめるだけで、事実殺す気はなかったものらしくあります。少しばかり懲らしめて突っ放してやるつもりで、二ツ三ツぶんなぐったのを、当の猿は殺されるのだろうと思って、あらん限りの絶叫をしました。
 そうすると樹の上に見ていた猿どもが、バラバラと樹から飛んで下り、一様にキャッキャッと物凄い叫びを立てました。
 その物凄い叫びを聞くと、どこにいたか知れない無数の猿が、谷から谷、樹から樹を潜《くぐ》って、続々として走《は》せ集まって来ました。その面《つら》の色は、いずれも物凄い色をして眼を剥《む》き出し、白い歯を剥き出して、丸くなって米友をめがけて襲いかかって来ました。
 米友は猿を怖れるのではありませんでしたけれど、その数の多いのを見ては驚かないわけにはゆきません。そうして彼等の面《つら》が、いずれも獰悪《どうあく》な色を現わしていることを見て取らないわけにはゆきませんでした。
「この奴ら、俺《おい》らに手向えをするつもりだな。こん畜生」
 正直な米友はまた、この猿どもの不遜な挙動を憎まないわけにはゆかないのであります。人の物を盗んでおきながら、その懲《こ》らしめを怖れずにかえって反抗し来《きた》るとは、身の程知らぬ猿どもだと思ってムキになりました。
 それで米友は、抑えつけていた大猿の頭を、一つガンと食《くら》わせました。大猿はギューと言って息が絶えた様子であります。その時に猛《たけ》り立った群猿は、八方から一時に米友をめがけて飛びかかりました。
「猪口才《ちょこざい》な、こん畜生め」
 米友はその大猿を片手で掴んで群猿の中へ投げ込んで、例の手慣れた杖槍を押取《おっと》りました。
「こいつら!」
 その杖槍を縦横に打振ると、猿どもはバタバタとひっくり返ったり飛び散ったりするが、直ぐにまたその後から後から後詰《ごづめ》が出で来るのであります。或る者は木の上へ登ってそこから木の枝を投げおろしました。或る者は妙見の社や作事小屋へ登って石ころの雨を降らせました。米友はその杖槍をりゅうりゅうと揮《ふる》って、その傍へ猿どもを寄せつけないのであったけれど、この騒ぎと猿どもの絶叫を聞いて、附近の山々谷々から続々と集まって来る猿の数の夥《おびただ》しいことと、その面色《めんしょく》の穏かならぬことにはいよいよ驚かないわけにはゆかないのであります。
「こうなりゃ、一匹残らず突殺してやるから覚えていやがれ」
 米友はとうとうその杖槍に、しかと穂先を穿《は》めました。それを下段に構えて、当るところのものを幸い、一匹残らず槍玉に揚げて、峠の谷を埋めてやろうと決心しました。
 多勢を恃《たの》む猿どもはいよいよ驕慢《きょうまん》でありました。けれど怜悧《れいり》な彼等は、いつも相手の実力を見るのに鋭敏でありました。ですから米友はギラギラ光る穂先を杖の先にすげて、一匹残らずという手強い決心をしたのを見て取って、急いで木の上や、堂の上や、作事小屋の上へ飛び上り、そこから眼を丸くし、歯を剥き出して、米友を睨めてキャッキャッと叫んでいます。
 満山の猿は、米友一人を遠巻きに押取囲《おっとりかこ》んでしまいました。
 米友が少しでも隙を見せれば、彼等は一度にドッと押包んで、取って食おうというような形勢であります。
 単身を以てすれば猿に劣らぬ俊敏な米友も、こう多数を相手にしては、ドレを目当に懲《こ》らしていいか、わからないのであります。それで米友は歯噛《はが》みをしました。
 かわいそうに米友も、畜類を相手にして立竦《たちすく》んでしまわねばならなくなりました。
 この時、どこからともなく、
「ホーイホイ」
という声。猿どもがキャッキャッと言っている中で、その声は、はじめは米友の耳へ入りませんでした。つづいて、
「ホーイホイ」
という声。それが耳に入ったのは米友より先に、米友を取囲んだ猿どもであります。
「ホーイホイ」
 その時に、米友も風の声かと思いました。
「ホーイホイ」
 人間の声であることは紛れもないのであります。人ならば二三十人の声でありましょう。それが何人《なにびと》であって何のためにする声だかわかりません。こちらへ来る人の声であるか、またはどこかへ一団《ひとかたま》りになっている人々の声であるかもよくわかりませんでしたが、
「ホーイホイ」
という声がようやく聞え出して来た時に猿どもが、遽《にわ》かにどよめき出したことがよくわかります。
 米友の気象としては、敢《あえ》てこの猿どもを相手に取ることにおいて、人の加勢を願おうとは思わないのであります。それだから人の声がしたからとて、それに助けを得たとは思われたくないのであります。人が来ようが来まいが、こうなった上は一匹残らずこの傲慢不遜《ごうまんふそん》な猿どもを退治てやらなければ、虫がおさまらないと思っているのであります。ただどこから形《かた》をつけていいか、余りにその数が多いことによって、戸惑いをしているのに過ぎないのでありました。
「ホーイホイ」
 その声は相変らず、遠くもなく近くもなく、纏《まと》まって響いて来るのであります。猿どもは米友を睨めると共に、しきりにその声のする方を気にしているようです。
 そのうちにどうしたものか、猿どもの陣形が忽ち崩れ出しました。ひとたび陣形が崩れ出すと共に、畜生の浅ましさであろう、今までの擬勢が一時に摧《くだ》けて、我勝ちに逃げ出しはじめました。その崩れたのと逃げ足との、あまりに慌《あわただ》しいのは、米友をして呆気《あっけ》に取らせるほどでありました。
「ホーイホイ」
 その声が敢て近寄ったというわけでもありませんのに。だから米友も少しく拍子抜けの体《てい》でいた時分に、やや離れたところへ大きなものが一つ現われました。
「こんちは、ずいぶんいい天気でございますねえ」
 その大きなものは、米友とかなり隔たったところにいながら、こう言って米友に挨拶しました。
「いい天気だよ」
 米友もまた仏頂面《ぶっちょうづら》で返事はしましたけれども、その大きな物体を、なんとなく間抜けた男だと思わないわけにはゆきません。なぜならばその大きな男は、牛みたような体格をしている上に、面《つら》つきがいかにも暢気《のんき》らしく、その上に、自分でいい天気だと言いながら、この昼日中のいい天気に、松明《たいまつ》の大きなのに火をつけて携えているのですから、かなり間抜け野郎だと米友は見て取ってしまいました。
 なおその上に間抜けなことは、背中に大きな石地蔵を一つ背負《しょ》っていることで、それを背負ってウンウン唸りながら、ここまで登って来たと思われる御苦労さであります。
「こんちは」
 その大きな物体は、今、背中の石地蔵を作事小屋の中へ運び入れて、台の上へ寝かしておいてから、額の汗を拭き拭きまた米友の前へ来て、二度目に、こんちは、と言いました。
「こんちは」
 米友もまた妙な面《かお》をして、この男に挨拶を返しました。
「お前さんは、この峠をお通りなさるのは初めてでござんすべえ」
と間抜けた男がニコニコしながら、米友にこう言いました。
「ああ、初めてだよ」
「だからお前さん、猿におどかされなすったのだ」
「ほんに憎い畜生よ」
 米友の余憤は容易に去らないのであります。
「何か猿が悪戯《いたずら》をしましたかね」
「俺《おい》らがここに置いた、胡麻《ごま》のついた握飯《むすび》を盗んで行きやがった」
「それをお前さんが調戯《からか》いなすったんでございましょう。だから猿がああして、仲間をつれて来て嚇《おどか》すんでございますよ」
「人をばかにしてやがる」
「ナーニ、猿だってそんなに悪い者じゃありましねえよ」
 この男は、なにげなき体《てい》でニコニコしていることが、米友には幾分か癪にさわらないではありません。この米友をさえ怖れなかった猿どもが、この間抜けた男が来たために逃げ出したとすれば、米友の沽券《こけん》にかかわらないという限りはない。米友は自分の実力でこの猿どもを懲らすことができないで、外来の人から追っ払ってもらって、それでようやく危急を逃《のが》れたというように
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