跡がないうちに、またも噂が立ちました。
「駒井能登守が自殺した」
という噂が立つと、神尾家の者共は、それ見たことかと得意満面でありました。まもなく自殺は嘘で、心中だ! という噂も立ちました。そうだろう、心中だろう、相手がよいからそんなことだろうと言って、また笑ったり囃《はや》したりしました。
 ところが、それらの噂はみんな嘘で、能登守は相変らず研究室へ籠《こも》って大砲の研究をしていると言うものもあって、何が何だかわからなくなりました。
 邸の中はひっそり[#「ひっそり」に傍点]していましたけれど、邸の外は囂々《ごうごう》として上も下もこの噂で持切りでありました。このことからして、能登守の信望は地を払ってしまいました。
 能登守に幾分か同情を持っている者は、お君という女が、人交りのならぬ分際の者でありながら、素性《すじょう》を包んで能登守を騙《たぶらか》し、それを窮地に陥れたことを、悪《にく》むべき女、横着の女であるとし、それをうかと信用して疑わなかったのは、つまりは能登守の宏量《こうりょう》なる所以《ゆえん》であって、罪は一《いつ》にお君にあるように言っていました。
 つまりその宏量というのは世間を知らないということで、どのみち素性を隠してお妾になろうというほどの女だから、旨《うま》い物を食って、いい着物を着せて貰いさえすれば、殿様であろうと、折助であろうと、誰でも相手にする女郎と同じことの女を寵愛してお部屋様に引上げ、それがために家門を潰《つぶ》すようなことにまでなるのは、お気の毒とは言いながら、よっぽどおめでたく出来ている殿様だと口穢《くちぎたな》く罵る者もありました。殊に例の折助社会に至っては、こんなことは待っていましたという程に喜ばしい出来事で、あらゆる醜陋《しゅうろう》と下劣の言葉で、皮肉と嘲弄の材料にしていました。
 こんな塩梅《あんばい》で、士分の間にも、町民の間にも、能登守に同情を寄せる者は一人もなくなってしまいました。内心は同情を寄せる者があっても、それを口にすると自分もまたほいと[#「ほいと」に傍点]であり賤人であるかの如くさげすまれるのが辛いから、御多分に洩れず口々に、能登守の行いを汚らわしいものとして罵っていました。見かけ倒しの惚《のろ》い殿様だといって、世間の口の端《は》に調子を合わせては笑い物にするのが多いのであります。
 能登守の邸はその当座閉門同様です。なんでもあの席から帰ったあとへ、若年寄からの伝達があって、不日、能登守は江戸へ呼びつけられるのだということです。
 それでいま頻《しき》りに邸内の整理をし、暇を遣《つか》わすべき家来たちには暇を遣わし、引次ぐべき事務は引次ぎ、邸外へ送り出すべき荷物は毎日送り出して、頻りに始末を急いでいるのだということであります。それで、いよいよひっそり[#「ひっそり」に傍点]している邸内の模様にひきかえて、外の評判は刻一刻に高まって行くのでありました。その評判を煽《あお》るのは神尾主膳の一派であるらしく、汚らわしい者を妾にかかえたのみならず、破牢の罪人を隠匿《かくま》って逃がしてやったり、甚だしいのは盗賊を出没させて城中城下から金を盗ませ、それをひそかに蓄えて、他日この甲府を根城に、事を起す時の軍用金として準備しているというようなことまで言い触らす者があります。
 神尾主膳は、あれだけでは飽き足らないで、あらゆる流言を放ってこの機会に、駒井能登守というものを士民の間の憎悪《ぞうお》と怨府《えんぷ》とにしてしまおうという策略のように見えました。
 この策略が図に当って、駒井能登守は逆賊の片割れであり、屠者賤民の保護者であるように思われてきました。
 能登守の邸の中へ、外から石が降りはじめたのは、いくらも経たないうちのことであります。その石の雨が一晩毎に殖《ふ》えてゆきました。それでも能登守の屋敷内はなぜかひっそり[#「ひっそり」に傍点]したものでありましたから、いい気になって石の雨が昼も邸の中へ降って来る有様とまでなってしまいます。
 夜はようやく人が出て面白半分に石や瓦を投げ込むのであります。そうして聞くに堪えない罵詈讒謗《ばりざんぼう》を加えては哄《どっ》と鬨《とき》の声を揚げる有様は、まるで一揆《いっき》のような有様でありました。
 しかし、遠巻きにしてこんな乱暴を加えるだけで、誰も近づいては来ませんでした。それはこの邸には大砲というものがあるし、また主人の能登守は無双の鉄砲上手であるということが、怖れの重《おも》なる理由であるらしい。
 そうしているうちにある日、駒井家の門が八文字に開きました。そこから威勢よく馬を乗り出したのは、例の通り筒袖の羽織に陣笠をいただいた駒井能登守でありました。
 それに従うた家来が十人ばかり、いずれも徒歩《かち》でありました。この一行は勢いよく表門を乗り出して、八日市通りを東に向って練り出しました。
 それと気のついた者は早くも立ち出でて、
「御支配が江戸へお引上げになる」
といって騒ぎました。騒いだけれども、一行の威風に呑まれて、夜陰《やいん》屋敷へ来てするように罵ったり、石を投げたりする者はなく、ただ一種異様の眼を以て見送っているうちに、馬蹄《ばてい》の音は消えて、一行は早くも甲府の城下を去ってしまいました。
 一行の姿が見えなくなってから、また噂は喧《かまびす》しくなりました。
 ああしてこの甲府から引上げた能登守は、問題のあの身分ちがいのお部屋様というのを、どう処分なされたのだろうということが評判の種とならずにはいません。
 そのうちに恐ろしい噂が立ちました。
 それはお部屋様のお君が自害してしまったという噂と、殿様のお手討に遭《あ》ってしまったという二説であります。自害説よりは、お手討説の方が有力でありました。
 駒井能登守はその立退きに当って、寵愛のお君の方を斬って二つにし、井戸へ投げ込んで立去られたと、見て来たように言う者もありました。そうではない、家臣の者がお君の方を刺し殺して、井戸へ投げ込んで引上げたのだという者もありました。
 ともかく、すべての者にお暇が出て、そのうちの一部の者は殿様がつれてお引上げになるうちに、ついにお君という女がどうなったかは、誰もその行方《ゆくえ》を知るものがありません。ことにその行方を知りたがって細作《しのび》をこしらえておく神尾派の者までが、ついにその消息を知ることができませんでした。
 総て知りたがっていることがわからないのだから、それでさまざまの揣摩《しま》と臆測とが、まことのように伝えられて来るのはもっとものことであります。
 そこで駒井能登守の屋敷は実際上の明家《あきや》となってしまい、筑前守の手に暫らく預かることになりました。二三の番人が置かれることになったけれども、その番人が夜になると淋《さび》しがってたまりません。
「お化けが出る」
という噂が、またパッと立ちはじめました。そのお化けを見たものがあるのだそうです。一人や二人でなく、幾人もそのお化けをみたという人が出て来ました。
 その説明によると、お化けは若い美しい凄いお化けで、手に三味線を持っているということです。
 それが肩先を斬られて血みどろになって、井戸の中から出て来て、屋敷をさがし歩いては泣くということであります。
 人の口《くち》の端《は》というものは、それからそれと枝葉が出るもので、能登守が馬に乗って門を出た時に、若い女の姿が真白な着物を着て、烟のようになって、能登守の馬のあとから追って行ったのを見たという者まで出ました。
 その当座は、またまたその噂で持切りで、能登守の屋敷あとは、金箔付の化物屋敷にされてしまい、そのお君の方を斬り込んだと伝えられる井戸は固く封ぜられ、ついにはその屋敷の前を通る者さえ少なくなりました。
 宇治山田の米友がこの噂を聞いたらどうだろう――そう言えば、袖切坂下で下駄を持ちあつかったあの男は、今どうしている。

         六

 わが親愛なる宇治山田の米友は、袖切坂で拾ったお角の下駄を持ちあつかって、一里の間も二里の間も持ち歩いていました。
 いつまでもその下駄を持って歩いたところで仕方がないから、ついに笛吹川の上流にあたって、とある淵の中へ思い切ってその下駄を投げ込んでしまいました。
 それから米友は大菩薩峠を登りにかかりました。
 例の跛足《びっこ》を俊敏な体と手慣れた杖とに乗せて、苦もなく峠を登って、やがて大菩薩峠の頂に着きました。
 頂上には妙見の社《やしろ》があって、その左の方に二間に三間ぐらいの作事小屋《さくじごや》があります。
「やれやれ」
 作事小屋には、誰か仕事をしかけて置いてあるらしく、切石がいくつも転がって、石鑿《いしのみ》なども放り出されてありました。
 石工《いしく》の坐ったと思われるところの蓆《むしろ》の上へ米友は坐り込んで、背中の風呂敷から、お角の家でこしらえてもらった竹の皮包の胡麻《ごま》のついた握飯《むすび》を取り出して、眼を円くしていましたが、やがてパクリと一口に頬張りました。
 握飯は大きなのが五つ拵《こしら》えてありました。それですから米友が、いま一つ頬張ってムシャムシャ喰っていると、竹の皮包の中には四つ残るのであります。
 その大きなのを一つ食べてしまってから、米友は峠の下から汲んで来た竹筒の水を取って飲みました。それからまた握飯を一つ取って頬張りました。それを食べてしまうと、また竹筒の水を取って飲みました。三つ目の握飯を米友が食べてしまった時に、惜しいことには竹筒の中の水を飲みつくしてしまいました。これは握飯の塩が利き過ぎていたせいか、或いは米友の咽喉が乾き過ぎていたせいか知らないが、ともかく、米友としては少し飲み過ぎた傾きがないではありません。
 胡麻のついた握飯は、まだあとに二個残っているのであります。それだのに水は早や尽きてしまいました。それは米友でなくても、山路を旅して腹の減った時分に、握飯を噛《かじ》るほどおいしい[#「おいしい」に傍点]ものはおそらくこの世になかろうはずのものであります。まして小兵《こひょう》ながら健啖《けんたん》な米友が、この場合に五箇《いつつ》の握飯を三箇《みっつ》だけ食べて、あとを残すというようなことがあろうとも思われませんのです。けれども水は尽きてしまいました。
「ちょッ、水がなくなってしまやがった」
 しばらく思案していた米友は、さいぜん登って来る路のつい近いところで、水の流れる音を聞いたことを思い出しました。それを思い出すと竹筒を取り上げて、杖なしで、さっさと峠道を少しばかり下りて行きました。それは竹筒へ水を汲まんがためであることは察するまでもありません。
 この小説の、いちばん最初の時に、巡礼の姿であったお松という少女が、これと同じようなことを、これと同じところで繰返していたのであります。その時の少女は、老人の巡礼につれられていましたけれど、今の米友はたった一人であることと、その時のお松は瓢箪《ひょうたん》へ水を汲みに行ったけれど、今の米友は竹筒を持って行ったことが、違えば違うようなものです。
 曾《かつ》てお松が、この下の黄金沢《こがねざわ》の清水を瓢箪に満たして、欣々として帰って来たその間に、連れの老巡礼は見るも無惨な最期《さいご》を遂げていました。
 それらの出来事は、いっこう米友の知ったことではありません。米友もまた、期せずして前にお松が汲んだろうと思われるあたりの沢の清水を竹筒に満たして、欣々として、もとのところへ帰って来たけれど、そこにはなんらの意外な変事も起っていた模様も見えません。
「おや」
 なんらの変事もないと思ったのは、米友がこの峠を初めての旅人であったからであります。竹筒を持って作事小屋の中へ入った時までは気がつかなかったけれど、そこへ来て見ると、今の米友にとってはかなり重大な変事が起っていることを知りました。
「握飯《むすび》がねえや」
 五箇《いつつ》の握飯のうち三箇を食べてしまって、あと二箇を残しておいたことは紛れもなき事実であります。
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