いることのように見えることであります。
筑前守のこの煮え切らない座長ぶりは、自然に神尾の無作法を嗜《たしな》める責任が駒井能登守の手に落ちて来るようになりました。上席の責任上、こういうことを神尾一人に言わしておくのは、その威厳にもかかるし、列席の不愉快を招くことが大きいのであります。やむことなく駒井能登守が、神尾主膳の矢表《やおもて》に立つことになりました。
「神尾殿、貴殿の御意見は一応|御尤《ごもっと》もなれど、それではどうやらこの甲府城内の上流の者に、風儀を乱すものがあるように聞えて甚だ聞苦《ききぐる》しい、角《かど》の立たぬように、御意見のあるところだけを述べて欲しいものじゃ」
駒井能登守からこういわれたのを機会に、神尾主膳は、能登守の方へ向いて正面を切りました。
「これは御支配の駒井殿、お言葉ながら拙者は元来、礼に嫻《なら》わぬ男、ついついお気に触《さわ》るようなことを申さぬとも限らぬ、これというも城内の士分の風儀を重んずる心から致すこと、別意あってのことではござらぬ、お咎めを蒙《こうむ》った上流の者のよくない風儀ということにも、ちと心当りあればこそ申すこと、これを大目に見逃しては、旗本の名誉が地に落つる……」
「それは聞捨てになり難い」
神尾主膳からこう挑戦的に出られてみると、駒井能登守も意気込まないわけにはゆきません。
こうして引き出されて神尾の手に載せられることは、能登守にとっては極めて不利益なのはわかっているが、私の場合においては避けて避けられることも、こうなっては避けられないのであります。
「いかにも聞捨てになり難いことでござる」
神尾主膳は膝を進ませました。
列席の人々は、意外の光景になって行くのを見ました。駒井能登守対神尾主膳の取組みのような形になって行くのを見ました。神尾が、能登守の上席に対して不平であって、事毎にそれに楯を突こうとするの形勢は、大抵の勤番は知っていました。能登守がまたそれに相手にならず、勉《つと》めて避けている態度を、奥床《おくゆか》しいとも歯痒《はがゆ》いとも見ている人もありました。しかし、公《おおやけ》の席で、こんなふうに正面《まとも》にぶつかりそうになる形勢は初めて見ることであります。ことに今日は神尾主膳から仕掛けて行って、敵を引張り出そうとする形勢が歴々《ありあり》と見えるから、能登守のために密《ひそ》かに心配する者もありました。それを太田筑前守がなんとも言わないのは、いよいよ以て怪《け》しからんことです。両々共に騎虎の場合になって退引《のっぴき》ならないのでありますから、この時に、太田筑前守がなんとか言って調停しさえすれば、とにかく鶴の一声でこの場は納まるべきはずであります。それを無言《だま》っている筑前守の気が知れないのであります。
筑前守が調停しないものを、それ以下の者が口を出すわけにはゆきません。それを神尾はいよいよ得意になって、
「列席のおのおの方にもさだめてお聞きづらいことでござろうけれど、さいぜんも申す通り、これを聞捨てに致し見捨てに致す時は、我々旗本の名誉が地に落つる、それ故、言い難きを忍んで申し上げる、おのおのにもお聞きづらきを忍んでお聞き下されたい。さて、御支配、駒井殿、ここでそれを申しても苦しうござりますまいか」
「勿論《もちろん》のこと、旗本の名誉が地に落つるというほどの重大事ならば、誰に遠慮も要らぬ、明白に承りたい」
「しからば申し上げる、近頃、この城中の重き役人にて、身分違いの女を愛する者があるやに専《もっぱ》らの噂」
「なんと申さるる」
「身分違いの女子を寵愛《ちょうあい》して、妻妾《さいしょう》の位に置くものがあるとやら」
「ははは、何事かと思えば家庭の一小事、そのようなことはこの席に持ち出すべきものでござるまい」
と言って駒井能登守は、笑ってその言いがかりを打消そうとしましたが、神尾主膳は冷笑を以てそれに酬《むく》いました。
「その人にとっては家庭の一小事か知らねど、武士の体面よりすれば、なかなか一小事ではござらぬ。いかにおのおの方に承りたい、たとえば旗本の身分の者が、仮りにほいと[#「ほいと」に傍点]賤人の女を取って妻妾となし、それにうつつを抜かして世の人に後ろ指ささるるようなことがあらば、それが家庭の一小事で済まされようや、また左様な人物が上に立つ時に、いかで下々《しもじも》の侮りがなくて済もうや、これが一大事でなければ、もはや武士とほいと[#「ほいと」に傍点]賤人との区別はない、士風の根本が崩れ申す」
神尾主膳は、駒井能登守の面《おもて》を見つめました。「これでもか」という表情と冷笑と、それから勝ち誇ったような下劣な得意とを満面に漲《みなぎ》らせていました。
列席の者は、神尾の言い分の道理あるやなきやの問題ではなく、その言うことに不快を感じて座に堪えられないようなものもありました。駒井能登守は神尾にこう言われて、一時《いっとき》沈黙して眼をつぶりました。企《たく》んだな! とこう思って駒井能登守のために同情し、神尾の挙動を悪《にく》む者も少なくはありません。
確かにこれは駒井能登守が窮地に陥ったなと、予《かね》ての噂を聞いている者は、ひとごとながら見てはいられない気の毒の感じを起したものも少なくはありません。
この場合、能登守を救うのは、誰よりも先に太田筑前守の義務でなければならぬ。今まで神尾にこういうことを言わせて置いたことでさえが緩慢の至りであるのに、ここでなお黙っていて能登守の急を救わなければ、それは武士の情けを知らないのみならず、寧《むし》ろ神尾と腹を合せて、神尾をして充分に能登守を弾劾させようとする策略があると言われても申しわけがありません。それでも、やはり筑前守は知らぬまねして、神尾の一言一句にも干渉することをしませんでした。
一座は白け渡ってしまいました。その中には、眼の色を変えて能登守のために、神尾に飛びかかろうという権幕のものも見えました。また神尾の言うことを小気味よしとして、能登守が窮したのを内心快くながめている者もあるようです。
一時沈黙して眼を閉じていた駒井能登守は、やがて眼を開きました。
「神尾殿、近ごろ苦々しき噂をお聞き申す、しかしともかくそれは一大事。して左様な噂を立てられた人物というのは何者にや、してまたその人物が寵愛するという身分違いの女子《おなご》の素性《すじょう》というのはいかなる者にや、その辺を委《くわ》しくお聞き申したい、それらの者の姓名もお包みなく、これにてお明かし下されたい」
能登守の声は、少しばかり顫《ふる》えを帯びていたようであります。けれども終《しま》いはキッパリとして、神尾主膳の面を篤《とく》と見つめながら言葉も色も動きませんでした。
「それは申し上げぬが花と存じ申す。しかしながら、言い出した拙者の面目、軽々しく世上の根無《ねな》し言《ごと》を、この公けの席へ持ち出したとあっては迷惑、それ故、噂は噂として、その噂の中より拙者の見届けた真実だけを申し上げる。拙者がまだ当地へ参らぬ以前のこと、伊勢の国の大神宮へ参拝致した、その途中、かの間《あい》の山《やま》と申すところに、名物のお杉お玉と申すものがおって、三味を弾《ひ》いて歌をうたい、客の投げ与うる銭を乞うていた、そのお杉お玉両女のうち、お玉と申すのがことのほか姿容《きりょう》がよい、それによく間の山節という歌をうたい申す、拙者も旅の徒然《つれづれ》に、右のお玉を旅宿に招《よ》んで歌を聞き申した、なるほど姿は鄙《ひな》に珍らしい、その歌も哀れに悲しい歌で涙を催した。しかるに近頃思いがけなくもこの甲州の土地へ来て、全く思いがけぬところでそのお玉という女子を見申した。それはただいま現在に、この甲府でさる重い役人の寵愛《ちょうあい》を受けているということを聞いて、いよいよ思いがけない思いを致した。おのおの方、そのお玉という者をいかなる素性の女子と思召す、姿こそ美しけれ、歌こそ上手なれ、それは彼地《かのち》にてほいと[#「ほいと」に傍点]というて人交りのならぬ身分の者、一夜泊りの旅人さえも容易に相手に致さぬ者を、知らぬ土地とはいえ、この甲府へ来て、あの出世、氏《うじ》のうして玉の輿《こし》とはよく言うたもの。ただし女は出世で済まそうとも、済まぬは我々旗本の身分、ほいと[#「ほいと」に傍点]賤人を寵愛して閨《ねや》の伽《とぎ》をさせるはすなわちほいと[#「ほいと」に傍点]賤人に落ちたも同然、もし我々同族のうちに、左様な人物がありとすれば、同席さえも汚《けが》れではござるまいか。左様なことはないことを望む、左様な人物はあってはならぬけれど、左様な人物あるがために士風を汚し、庶民の侮《あなどり》を買うような仕儀に到らば打捨てては置かれまい、よし一人の私情は忍び難くとも、流れ清き徳川の旗本の面目のために……」
主膳は今日を晴れとこんなことを絶叫しました。能登守は静粛《じっ》として聞いていたけれども、座中にはもう聞くに堪えない者が多くなって、雲行きが穏かでないのを、太田筑前守が、この時になってようやく調停がましき口を利き出しました。
今ごろになって調停がましい口を利き出すなぞは、かなりばかばかしいことであります。
気の毒なことに駒井能登守は、すっかり彼等が企みの罠《わな》にかかってしまいました。ここに至るまでには一から十まで企みに企んであった仕掛を、能登守は一つも覚《さと》ることなくしてこの場に身を置くようになったのは、返す返すも気の毒なことであります。
太田筑前守は程よくこの会議を切上げる挨拶を述べ、神尾主膳は勝ち誇った態度で揚々と座を立ち、そのほか集まる人々がおおかた席を退いたけれども、駒井能登守は柱に凭《もた》れ腕組みをして俯向《うつむ》いていました。
すべての人が席を退いたあとで、能登守はそこを立ち上りました。その時に面色《かおいろ》は蒼ざめていました。足許がよろよろするのを、辛《かろ》うじて刀を杖にして立ったように見えました。さすがにこの人とても非常なる心の動揺を鎮めるのに、多少の苦しみを外へ現わさないではいられないのでしょう。それでも玄関へ出た時分には、なにげない面色で家来たちを安心させました。お供の家来たちは、不幸にして主人の受けた恥辱と、その心の中の苦痛を知らないのであります。
こんなわけで、能登守の乗物は無事に邸へ帰るのは帰ったけれど、その時になって大きな騒ぎが起りました。主人が御番所において受けた容易ならぬ恥辱を、お供の者が知らない先に、邸へ知らせたものがありました。そこで家老とお供頭《ともがしら》との間に、烈しい口論がありました。口論ではなく家老がお供の者たちを罵《ののし》って、
「腰抜け! たわけ者! ナゼその場で神尾主膳を討って取らぬ、その場で討つことが叶《かな》わずば、途中においてナゼ神尾主膳の同列へ斬り込んで討死をせぬ、よくもおめおめとお供をして帰って来られたものじゃ」
家老のお叱りにあって、お供の者は一言もないのであります。家老のお叱りそのものが何を意味するのだかを合点することができませんでした。
これは無理のないことで、たとえば毒を飲まされた時に、飲まされた当人が黙って堪《こら》えている以上は、外から見て、その苦痛や惨烈の程度がわからないのはあたりまえのことであります。
駒井家の邸内は沸騰しました。これから神尾主膳の邸へ斬り込まんとする殺気が立ちました。それを厳しく押えた能登守は、追って自分の沙汰《さた》するところを待てと言って、例の研究室へ入ってしまいました。その邸内がこんなに混雑したのみならず、この噂は城下一般に燃え立ちました。駒井能登守の家来が、今にも神尾主膳の屋敷へ斬り込んで来るという噂が立ちました。神尾の屋敷では、それこそ面白い、そうなれば能登守が恥の上塗り、見事、斬り込んで来るなら来てみろという意気込みで、人を集めて待ちうけました。
その附近の家々では家財道具を押片附けて、今にも戦争が始まるかのように慌《あわ》てるものもありました。しかし、その形
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