々の見ている方向を見ると、お城の天守台あたりの屋根の上に赤く一点の火があって、それがクルクルと廻るのであります。
確かに提灯であろうとは認められるけれども、その提灯ならば何者がどうして、あんなところへ上ったかということが疑問であります。巷《ちまた》の人々の噂は信ずることが出来ません。
いったん町へ出た兵馬は、どうしたものか再び駒井能登守の邸の後ろへ来てしまって気がつきました。見上げると、三階になったところの戸が開かれ、そこから火の洩《も》れてることが見えます。
あれは能登守が物見のために建てたところで、あの三階へは、能登守自身のほかは登れないことにしてあるのだから、そこで火の光のすることは、まさしく能登守がそこにいて、何事かを調べているのだということがわかります。
それ故、兵馬は懐しく思って三階の上を暫らく見上げていると、その開かれた戸から人の半身が見えました。それは一見して能登守の姿であることがわかりました。
今、能登守は、そこから面《かお》を出してお城の方をながめている。お城の方といえば無論、その天守台の櫓《やぐら》の屋根の上の疑問の提灯の火であります。その提灯の火は、さきほどはクルクルと廻っていましたけれど、今は高いところでブラブラと横に揺れています。
兵馬は三階の上なる能登守と、天守台の上なる疑問の提灯とを興味を以て見比べていました。いったい能登守という人は、妖怪変化《ようかいへんげ》を信ずることのない人であるから、あの提灯についてはいかなる解釈を下しているのだろうと、その心持を兵馬は忖度《そんたく》してみないでもありません。
窓から半身を出した能登守は、ややしばらくの間、その疑問の提灯を見定めている様子でありましたが、やがて取り直したと見えるのがまさしく一挺《いっちょう》の鉄砲であります。
「さてこそ」
あれだ、能登守の疑問の提灯に対する解釈はあれだと、兵馬は少なからぬ好奇心を加えました。
能登守は聞ゆる射撃の名人。あの銃口《つつさき》に提灯の疑問が破られて、同時に、市民の迷信が解かれるのだと、兵馬は頼もしく思って固唾《かたず》を飲みました。
鉄砲を取り直して構えた能登守の姿勢は無雑作《むぞうさ》に見えました。暫らくして轟然《ごうぜん》と一発!
兵馬は天守台の櫓《やぐら》の屋根の上から、疑問の提灯が切って落したように真一文字に直下するのを見ました。
しかも直下する途中で提灯の体へ火がついたから、一団の火の玉が九仞《きゅうじん》の底に落つるような光景を、兵馬はめざましく見物しました。おそらく、ほかの市中の人もそれをめざましく見物したでしょう。
五
その翌日、城中の御番所で勤番の総寄合《そうよりあい》がありました。
月に少なくも一度はある詰合《つめあい》でありましたけれど、その日の寄合は、特に念入りの寄合ということであります。
御老中が見えるということもあるし、また御老中の名代《みょうだい》に、駿府《すんぷ》の御城代が立寄るという噂《うわさ》もあるし、それらの接待の準備や、また先日の流鏑馬《やぶさめ》の催しについての跡始末やなにかの相談もあるのであります。駒井能登守も無論、その総寄合に立会わねばならない。それでお供の者はお供の用意を整えて、主人のお出ましを待っていました。
ここに訝《いぶか》しいことは、まだお君の方が今朝から枕を上げないことであります。殿様の御出仕には、いつも人手を借らずにお世話を申し上げる寵愛《ちょうあい》のお君が、どうしたものか今朝は気分が悪いというて、能登守の前へ姿を現わすことをしませんでした。それだから能登守は、ほかの女中の手によって世話をされながら、
「どこが悪いのじゃ」
と訊《たず》ねました。
「どこがお悪いのでございますか、急に……」
と言って、訊ねられた女中も、お君の方の病気の程度を知らないもののようであります。
能登守はそれを物足らず思い、また事実、お君の病気が甚だ軽いものでなかろうということを心配しながら、出仕の時間に迫られて邸を出ました。
この日の詰合には、当番も非番もみな集まるのでしたから、追手《おうて》の門は賑わいました。二の丸の下にある御番所の大広間は、これらの詰合でいっぱいになりました。能登守の一行も御番所へ着いた時分には、大方その席が満ちていました。上席の太田筑前守もまた別席に休憩して、会議の開かれる時刻を待っていました。御番所というのは、大手の門を入ると少しばかり行ったところの左手にあります。その右は二の丸で、後ろは楽屋曲輪《がくやくるわ》、表門の左右にはお長屋があり、お長屋の前には腰掛があって、足軽が固めていました。
能登守はこの御番所の表門から入って、お長屋へお供を待たせて、刀を提げて玄関へかかりました。出迎えの者は、いつもするように上役に対する礼儀を尽して能登守を迎えました。これは今日に始まったことではないけれど、なぜか能登守はこの時に胸騒ぎがしました。一種の不安な気持がヒヤリと能登守の胸を刺して、玄関の大障子に何か暗い色が漂うているように見えたから、それで能登守はなんとなく胸騒ぎがしたのであります。
思い返してみるとその不安は、今朝に限ってお君の姿を見せなかったことから起る心配の変形であると弁解ができないではありません。ああ、出がけに一度、お君の病状を見舞ってやればよかった、今日はここへ医者も詰めているはずだから、それを急に見舞に遣《つか》わそうというようなことを思いながら、能登守は刀を提げて大広間へ進み入ると、五百人足らず集まった勤番のいずれもが能登守に対して、上役の出席という敬意を表したけれども、その席の上のいずれかに、やはり冷たい色が漂うように見えて、まだ能登守の胸騒ぎが止まりませんでした。
これより先、この席の一隅で問題になっていたものがあります。それは一つの壊《こわ》れた赤い提灯であります。
その提灯は壊れた上に、大半は焼けてしまっていました。それを手から手に渡して、しきりに話し合っていましたところへ能登守が見えたので、その話も止みました。その時分にどういうつもりか、右の焼けて壊れた提灯は、この席でも上の方にいる神尾主膳の手に渡って、留保されるもののように膝の上に載せられます。
やがて太田筑前守も出席するし、それと並んで駒井能登守、そのほか組頭や奉行の面々以下、勤番の人までが、それぞれ順序によってその大広間に居流れて、やがて会議が始まりました。
筑前守が席の長者で一通りの挨拶があり、駒井能登守もまた、それに次いで両支配の訓示様のことから会議が開かれ、各組頭や奉行の報告様のことで無事に進行し、その間はいつもする会議の通り極めて月並なもので、末席の連中はしびれ[#「しびれ」に傍点]を切らせ、あくび[#「あくび」に傍点]を噛み殺していました。
訓示と報告とが一通り済んだ時分、もうこれで散会になるだろうと、しびれ[#「しびれ」に傍点]を切らしたり、あくび[#「あくび」に傍点]を噛み殺していた連中がホッと息を吐《つ》いた時分、
「御支配並びに列座のおのおの方」
と甲走《かんばし》った声が聞えました。誰の発言かと見れば、それは焼けて壊れた提灯を膝の上に載せていた神尾主膳の口から出たものであります。神尾の面付《かおつき》の緊張しているのと、その発言の甲走っていることによって察すれば、何かこの男が緊急動議を提出するものらしい。
「神尾殿」
と言って議長ぶりの太田筑前守が主膳の名を呼び、その言わんとするところを言わせようと催促しました。
「ちとお聞きづらいことのようではござるが、言わんとして言わでやむは武士の本意でない、その上に、このことは甲府城を預かる我々一統の面目にもかかることと存ずる故、この席で両支配並びに列座のおのおの方の御所存を承りたい」
神尾の意気込みは烈しいのに、太田筑前守はそれをさのみ気には留めないようであります。駒井能登守は神尾の気色《けしき》のただならぬのと、それから武士の面目呼ばわりをすることが穏かでないのを、上席の筑前守が応対しないから自分で引受けて、
「我々一同の面目にかかるというのは一大事、何事かは存ぜねど、神尾殿の御腹蔵なき御意見が承りたい」
と言いました。
能登守からこう言われて主膳は、さもこそという面付《かおつき》で、膝の上にさいぜんから後生大事に保管していた焼け残りの提灯を取り上げました。
「近頃、この甲府城の内外は甚だ物騒なことでござる、城下の町々で辻斬がほしいままに行われるかと思えば、破牢の大罪人があって人心を騒がす、その辻斬の曲者《くせもの》も未だ行方が判然せず、破牢の重《おも》なる罪人は影も形もなし、これ我々を在って無きが如く致す者共の振舞。その以前、御金蔵の金子《きんす》が紛失致したとやら、その盗賊の詮議《せんぎ》も今以て埒《らち》が明かず。あれと言いこれと言い、不祥千万《ふしょうせんばん》。その上に、このごろは毎夜の通り、この天守台の上に提灯が現われる、心なき町民どもは天狗魔物の為す業《わざ》と申しおれど、これ以て人間の為せし悪戯《いたずら》、我々を愚弄するにも程のあったもの。余《よ》のことは扨置《さてお》き、まず天守台の提灯から御詮議あって然るべく存じ申す」
神尾主膳は、焼けた提灯を捻《ひね》くり廻しながらこう言いました。
神尾主膳のこの発言は無遠慮に聞えました。列座の誰をも不愉快に感じさせましたけれど、その言うことには筋道がありました。神尾がいま並べたようなことは、その一つがあっても、役人の重き越度《おちど》と言わなければなりません。神尾とてもその責めを分つべき勤番のうちの上席の方の身分でありながら、それをこの席へ持ち出すということは、あまりに無遠慮であると思いました。
太田筑前守がそれを抑《おさ》えないのも気の知れないことだと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るものもありました。駒井能登守は主膳の無遠慮な発言を聞いて、やはり沈黙していました。
そうすると神尾主膳は、先程はやや甲走《かんばし》っていた声がようやく落着いて、提灯を枷《かせ》に使いながら、一人舞台のように主張をはじめてしまいました。
「まさしく何者かがあって、この提灯を夜な夜な天守の上へ掲げて我々を愚弄したものと相見える、奇怪千万のことと申さねばならぬ、この用捨し難き悪戯は、何者の手によって為されたかきっと訊《ただ》さねばならぬ。しかし、これと言うも末のこと、斯様《かよう》に我々を愚弄致すものがあるのは、つまり上《うえ》が悪い、上の風儀が乱れているが故に、下これを侮《あなど》る、まず以て上の士風から正さねば相成るまい、上に立つ者の風儀が乱れていては、いくらそれぞれの係の者が骨を折ったからとて所詮《しょせん》無益、一向に人のしめし[#「しめし」に傍点]にはならぬ、かえっていよいよ軽侮《けいぶ》を加えるのみじゃ、まず以て上流の風儀が肝腎《かんじん》」
と言って神尾主膳は、駒井能登守を尻目にかけるようにしました。これは、いよいよ無遠慮な言い分に相違ないことであります。
上流の士風というようなことを、別人ならぬ神尾主膳の口から聞くことは、淫婦の口から貞操が説かれ、折助の口から仁義が論ぜらるるようなものであるけれど、それにしても、この席で神尾の上流としては、太田筑前守と駒井能登守があるくらいのものであります。これらの上席をそこへ置いて、こんなことを言うのは、この上もなき礼を失した言語挙動であります。神尾とても、そのくらいの礼儀を弁《わきま》えない男ではなかろうけれど、それを満座の中でかく主張するからには、やはり例の通り、何かの魂胆があることと見なければならないのであります。
神尾の言い分も怪《け》しからんものであるけれど、それをまた抑えようとも咎《とが》めようともしない太田筑前守の座長ぶりもまた、気の知れないものであります。筑前守の態度は、神尾に言うだけのことを言わせてしまおうという態度のように見えることであります。その無礼と無作法とを黙認して
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