ぞは、気味が悪いばかりです。
そのうち大月の手前まで来ると不意に、
「どうか一足先においでなさいまし、私は少しばかり廻り道をして参りますから」
と言うかと思えば、がんりき[#「がんりき」に傍点]はツイと横道へ切れてしまいました。お松と一緒に歩いている時は、そんなでもなかったけれど、一人で横道へ切れる時の足の早いこと、あ、と言う間もなくいずれへか姿を消してしまいました。
それから、お松はまた一人で歩いて行きました。この男は、確かに道中の胡麻《ごま》の蠅《はえ》というものだろうと思いました。飛んでもないものに附き纏《まと》われてしまったと、泣きたいにも泣けない心持で、心細い旅を歩きます。
笹子の山中で、右の男は道すがら、自分はこう見えても女に餓えているような男でないから、一人旅をなさるお前様を、取って喰おうの煮て喰おうのという了見《りょうけん》はございませんと言った言葉を思い起しました。事実、あの男が自分を女と知った上で、無礼を加えるつもりならば、今までにその機会もあったろう。殊に昨夜の泊りで、わざと外してしまったのが不思議であるなどと、お松は考えて歩きます。
しかし、気味の悪い男は気味の悪い男である、どうしてもあの男と道づれの縁を切ってしまわねばならぬと思いました。それをするにはいかなる手段を取ったらばよいだろうかと、そのことをそれからそれと考えて、大月から駒橋、横尾、殿上《とのうえ》と通って、ようやく猿橋の宿まで入ることができました。
お松は幼《いとけ》ない時分から諸国の旅をして歩きました。それ故に、はじめのほどは辛かったけれど足が慣れてみれば、世の常の女のように道に悩むことが少ないのであります。ただ腰に差し慣れない両刀の重荷が苦しく、人の見ないところでは、それを抱えるようにして歩きましたが、猿橋の宿へ来て、とある茶店へ入って一息つきました。
「許せよ」
お松がこの店に休みながら考えたのは、やはりこの後いかにして、がんりき[#「がんりき」に傍点]という気味の悪い道づれを撒《ま》こうかということでありました。お松の思案では、幸いに、この道中でしかるべき有力な旅の人を見つけて、その従者に加えてもらうか、或いは同行に入れてもらえば、これから先の道中も無事であるし、あの気味の悪い男も寄りつくまいということであります。
ここで中食《ちゅうじき》をしている間にも、お松はその心持で街道の方を眺めていました。
暫くした時に、その前をズッシズッシと通ったのは、昨日、笹子峠の坊主沢のあたりで遣《や》り過ごした八州の役人という一隊でありました。その一隊の人が、ズッシズッシと通って行く光景はなんとなく穏かでありません。昨日あれからどこまで行ったのか、甲府までは行くまいけれども、勝沼あたりまでは行って、それからまた引返して来たものに相違ないのであります。
いかに同行の人を求めたいからと言って、あの一行の中へ駆け込むわけにもゆかないから、お松はそれの通り過ぐる間は隠れるようにして、それが遠く離れたと思われる時分まで、わざとこの店に隙《ひま》をつぶしていると、そこへ頬冠《ほおかぶ》りをした逞《たくま》しい馬子《まご》が一人、馬を曳《ひ》いてやって来ました。
「御免なさいよ」
と言って頬冠りを取った馬子の面《かお》は日に焼けて髯《ひげ》だらけであるけれども、厳《いか》めしい面で、眼つきが尋常の馬子とは違うように見えます。眼つきが違うといっても、悪い方に違うのではありません。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は身なりを小綺麗にしているにかかわらず、なんとなく小気味が悪い男であるけれど、いま入って来た馬子は、容貌が怖ろしげなのにかかわらず、一見して気味の悪いという感じをお松に与えないで、そのお粗末な服装の中に、どこやらに親しみのある人品が備わるように見えないでもありません。無雑作《むぞうさ》に入って来たけれども、そこにお松のあることを見て、丁寧に小腰をかがめました。
この店の親方とは、心安い間柄と見えて、話しぶりも打解けたものです。その話を聞くと、笹子まで客を送って行って、これから鳥沢へ帰るところであるということです。
この馬子は隅っこへ腰をかけて、お松の方を遠慮深く見ていたようでしたが、
「もし、お武家様」
と言って言葉をかけました。
「はい」
お松は馬子から言葉をかけられたので、少しうろたえて返事をしました。
「失礼でございますが、あなた様は、これからどちらへお越しでございます」
「江戸へ下ります」
「左様でございますか、お一人で……」
「はい」
「いかがでございましょう、どのみち帰りでございますから、お馬にお乗りなすっておくんなさいますまいか」
と言われて、お松は馬子の面《かお》をチラと見ました。人の悪い馬方や雲助の多いことでは、郡内は名うてのところであります。ですから、なるべく今まで馬も駕籠も傭わないことにしていました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がついていたから、それでも今まで通って来たけれど、これからさき一人で歩こうものなら、どんなうるさい勧め方をされるかわからないし、万一、自分が女と知られた上は、またどんな目に遭うか知れたものでないと思いました。
今、ここでこの馬子から馬に乗れと言われてみると、もうこれが悪強《わるじ》いの最初ではないかと思われて、その馬子の面を見たのですけれど、主人の話しぶりを見ても、その人柄を見ても、性質《たち》の悪い馬子とは見えません。
お松は心をきめて、とうとうその馬に乗ることに約束しました。
馬子は喜びました。どのみち帰り馬のことだから、賃銭も安くするようなことを言いました。お松はどこまでというきまりをここではつけませんでした。けれど、実は上野原まで一気に行ってしまおうという心で、この馬に乗ることにしました。
この馬子の面はどこやら、先に甲府の牢を破った南条という奇異なる武士の面影《おもかげ》には似ているけれども、それはお松とは更に交渉のあることではありません。
ほどなく例の猿橋まで来ました。こちらへ入る時にお松は、この有名な橋の傍へ駕籠をとどめて見て過ぎました。今、馬上からそれを見るとまた趣が変ったものであります。馬子は、この橋が水際まで三十三|尋《ひろ》あること、水の深さもまた三十三尋あること、橋の長さは十七間あることなどを、どの客人にも説いて聞かせるように、お松にも説いて聞かせました。
山谷《さんや》の立場《たてば》で休んで犬目《いぬめ》へ向けて歩ませた時分に、傍道《わきみち》から不意に姿を現わした旅人がありました。お松は早くもその旅人ががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることに気がついて、ヒヤリとしました。
百蔵もまたズカズカと馬の傍へ寄って、お松に向って馴々《なれなれ》しく口を利《き》き出そうとした時に、前に手綱《たづな》を曳いていた馬子が、不意に後ろを向きました。近寄って来たがんりき[#「がんりき」に傍点]がハタと面《かお》を見合せたところ、おかしいことに、がんりき[#「がんりき」に傍点]が甚だしく狼狽《ろうばい》しました。ともかく相当の悪党を以て自任しているらしいがんりき[#「がんりき」に傍点]が、この馬子の面を見ての狼狽《あわ》て方は尋常とは見えません。
それがために、せっかくお松に寄ろうとして来たがんりき[#「がんりき」に傍点]が、一言も物を言う遑《いとま》がなく、タジタジとさがって苦《にが》い面をしたが、そのまま前へ突き抜けて、トットと早足に行ってしまう有様は、逃げて行くもののようであります。がんりき[#「がんりき」に傍点]が、しかく狼狽するにかかわらず、馬子は、
「あははは、足の早い野郎だ」
と笑っていました。
なるほど、足の早い野郎で、忽《たちま》ちに後ろ影さえ見えなくなってしまいました。
「お武家様、お前様は、あの男に見込まれなさいましたね、お気をつけなさらなくちゃあいけませんぜ、あいつは執拗《しつこ》い奴でございますからなあ」
「馬子どの、お前は、あの人を知っておいでなのか」
「知っておりますよ、いやに悪党がって喜んでいる、たあいもない奴でございます」
「実は、あの者に取りつかれて困っています、なんとか遠ざける工夫はなかろうか」
お松は、ついこのことを馬子に向って口走りました。
「左様でございますねえ、こんど出て来たら取捉まえて、なんとかしてみましょう」
と馬子は言いました。なんとかしてみるというのは、どうしてみるつもりなのだろう。けれどもこの馬子ががんりき[#「がんりき」に傍点]を怖れないと反対に、がんりき[#「がんりき」に傍点]がこの馬子を怖れて逃げたことは今の挙動でわかるのですから、お松はなんとなくこの馬子を心強いものに思います。
この馬に乗ったお松は、犬目新田も過ぎ、矢壺《やつぼ》の座頭《ざとう》ころがしの険も無事に通って、例の鶴川の渡し場まで来ました。
ここは、その前の時分に宇治山田の米友が坊主にされたところであります。ここまで来る間に、どうしたのかがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵はまるきり音沙汰がありません。
前の時には、大勢の川越し人足がいたけれども、今は水の出も少ないし、人足でなしに、橋を架《か》けて橋銭を取って渡していました。定めの橋銭を払って、この橋を渡りきると、以前、川越し人足が詰めていた小屋があります。その小屋の中に休んでいたのは例の八州の役人と手先とでありました。
「これ待て」
お松を乗せた馬がこの前を通った時に呼びかけました。南条に似た馬子は、その声を聞いて聞かないようなふりして行こうとするのを、
「その馬待て」
二度呼び留めましたけれども、馬子はやはり聞かないふりをして行ってしまいます。役人はあとを追っかけて来るかと思うと、それっきりなんの音沙汰もありませんでした。だからお松の乗った馬は、無事に渡し場を越えて上野原の宿へ入りました。
ここで若松屋という宿屋へ、この馬子によって案内されました。これから江戸へ行くまで、放したくない馬子だと思いました。けれども、そういうわけにはゆかないから、お松はこの馬子に定めの賃銀と若干の酒料《さかて》とを与えて、自分は、また一人で心細い宿屋の一室へ隠れるようにしています。
さてこうしてみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことが思い出されます。あの馬子の面《かお》を見て逃げた狼狽さもおかしいけれど、それっきりで出て来ないという男ではないはずであります。馬子を帰してしまってこれからの道も心細いが、またあの男に出て来られることも気味が悪い。お松がその両方を考えているところへ、
「お客様、まことに恐れ入りまする、八州様の御用が参りました」
「八州様の御用とは?」
「この辺をお見廻りのお手先でございます」
「役人に調べられるような筋はないが」
「さあ、どういうわけでございますか、先刻お馬でお着きになった若いお武家の方にお目にかかりたいと申して、店へお出向きになりましてございます」
「はて、先刻馬で着いたといえば、どうやらわし一人のような……」
「左様でござりまする、ほかにお馬でお着きになったお方もござりますれど、若いお武家様とおっしゃられると、あなた様のほかにはござりませぬ」
「わしに何の用向きか知らんが、会いたくないものじゃ」
「それでも、ちゃんと、おあとを見届けておいでになったものでございますから、外様《ほかさま》と違いまして、お断わり申すことはできないので困っておりまする……」
「そんならぜひもない、会いましょう、これへお通し下されたい」
とお松は言って番頭を帰しました。
けれどもこれは安からぬ思いであります。この際に役人から取調べを受けるということは一大事であります。しかしこうなってみては逃れることができません。断わることもできません。断われば職権を以て踏み込むに相違ない、逃るれば手分けをして引捕えるに相違ない、会ってみるよりほかはどうにも仕方がないのであります。このくらいなら、いっそ、がんりき[#「がんりき」に傍点]と連れになって
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