いた方が、まだ知恵もあったろうにと思われる。そうして胸を痛めているところへ案内につれて、八州の役人と手先がズカズカと入って来ました。
 お松は胸が噪《さわ》いで、気が嚇《かっ》と逆上《のぼせ》るようであります。
「ちと、お尋ね致したいが、其許様《そこもとさま》はいずれからお越しになりました」
 入って来た八州の役人というのは、わりあいに丁寧な物の尋ね様です。
「拙者は甲府より参りました」
 お松も一生懸命で、度胸をきめて返事をしはじめました。
「甲府はいずれのお身分」
「勤番支配駒井能登守の家中の者にござりまする」
「駒井能登守殿の御家中とな、失礼ながら御姓名は?」
「和田静馬と申しまする」
「和田静馬殿……」
と言って役人は小首を傾けましたが、
「して、これよりいずれへお越し」
「主人能登守のあとを慕うて、江戸まで出まする途中」
「ただお一人にて?」
「左様。それには少々事情ありて、主人の一行に後《おく》れました」
「ともかく、少々|御意《ぎょい》得たきことがござる故、本陣まで御足労下さるまいか」
「それは迷惑な」
「強《た》ってとはお願い申さぬ、実は貴殿のお身の上と言い、ただいま承ったところと申し、ちと不審の儀がござる」
「不審と仰せらるるのは?」
「よろしい、しからば後刻また改めてお伺い致そう、御迷惑ながらそれまでは、このお宿をお立ち出でなさらぬように願いたい」
「心得ました」
「これは御無礼の段、御用捨」
と言って役人と手先とは、ゾロゾロと帰ってしまいました。
 ともかくも帰ってしまったから、お松はホッと息をつきました。ホッと息はついたけれどこれは、いよいよ安心がならないのであります。存外、立入って調べることはしなかったけれども、実はここへ検束されてしまったのと同じことであります。後刻というのはいつ頃のことか知らないが、その時に来て委細を調べられてしまえば、何もかも曝露《ばくろ》されてしまうことであります。関所を抜けて来たことも表向きになってしまわねばならぬ。駒井能登守家中ということや、和田静馬ということの化けの皮もたちどころに剥《は》がれてしまわねばならず、その上に、あられもない男装して神尾の家を抜け出したことの一部始終は、たあいもなく露見してしまうのであります。お松はようやく、絶体絶命のようなところへ追い詰められる気持に迫られて、いざといえば自害をして果てるばかりと、小刀を膝のところへ取り上げて、その後の成行を怖ろしい思いで待っていました。
 けれども、待ち構えている役人も手先も、容易にやって来る模様は見えませんでした。かなり身体も心も疲れているから、もう寝てしまいたい時刻であったけれど、いつ役人が押しかけて来るか知れないのだから、寝てしまうわけにもゆきませんでした。
 行燈《あんどん》の影に、ぼんやりと小刀を膝の上へ載せたままで、限りのない心細い思いと、それから危険を前にした一種の張りきった心とで、お松は事のなりゆきを待っています。
 甲府から江戸までは僅かに三十余里の旅、前に長い旅をしていた経験から、それをあまりにたかを括《くく》った無謀を、ことごとにお松は覚《さと》ってくるのでありました。
「もし、役人に引き立てられて、本陣とやらへ行かねばならぬ場合には自害する、いっそ、こうなっては、その前にここで死んでしまった方がよいかも知れぬ」
 お松は、調べられて一切が曝露した暁に恥辱を取るよりは、それより前に死んでしまった方がと、さしもに気が張っているお松も、とても逃れぬ運命と死を覚悟してみると、一時に心弱くなってきて涙を落しました。
 その時に、役人の来るべき表口でなく、障子を隔てた廊下の方で人の気配がするようであります。

         十二

 お松がこうして宿に着いた時よりは少し遅れて、同じような客がこの上野原の本陣へ、同じような方向から来て宿を取りました。それはお松のように忍びやかに来たのではなく、大手を振らないまでも、旅路には心置きのない人のようであります。
 その客は、お松と同じような若い侍の姿をしていましたけれど、お松のように単独の旅ではなく、ほかに一挺の駕籠《かご》と共に、自分もここへ着く時は駕籠へは乗って来たけれども、寧《むし》ろほかの一挺の駕籠を守護して来たもののようであります。
 本陣へ着いてまもなく、守って来たほかの一挺の駕籠の人を隠すように別間へ置き、自分はその次の一室を占めました。申すまでもなく、その隠すように守護されて来た人というのはお君で、それに附いて来た人は宇津木兵馬であります。兵馬がその一室に控えている時に、これもお松が受けたと同じように、例の八州の役人の見舞を受けました。
「はて、八州の役人が何用あって、我々を詮議《せんぎ》する」
と兵馬は訝《いぶか》りましたけれど、それに応対する用意は充分であって、表面上はなんらの咎め立てを蒙《こうむ》るべき由もないのであるから、お松のような不安な心でなしに、たちどころにその役人を迎えました。
 役人は、またお松にしたように、そのいずれより来りいずれへ行くやを尋ねました。また兵馬に向って身分と姓名とを尋ねました。その時、兵馬は答えました。
「甲府勤番支配駒井能登守の家中、和田静馬と申す者」
「ナニ、貴殿が和田静馬殿と申される?」
 役人は眼を丸くしました。その上に念を押して、
「お間違いではござるまいな、しかと貴殿が和田静馬殿か」
「御念には及び申さぬ、元、駒井能登守の家中にて和田静馬と申すは、拙者のほかにはござらぬ」
「ところが、その和田静馬殿が二人ござるから、物の不思議でござる」
「なんと言われる」
「しかも、同じくこの上野原の宿屋へ今日泊り合せた客人に、同じく駒井能登守殿の家中にて、和田静馬と名乗る御仁《ごじん》がござる」
「これは不思議千万、その者はいずれの宿にいて、何を苦しんで拙者の名を騙《かた》るのか」
「それはただいま、我々が確かに会うてその名乗りを承って参った、当所の若松屋というのに、今も尋常に控えておらるる」
「はて怪しい、してその者の年頃は」
「貴殿よりは一つ二つお若うござるかな」
「それほどの年にしては大胆な。ともかく、それは心あってすることか、或いはまた旅路のいたずら心から、わざと拙者の名を用いるものか、これへ同道して突き合わせて御覧あればすぐにわかること」
「いかにも、貴殿がまことの和田静馬殿であることは、恵林寺の先触《さきぶれ》でも毛頭《もうとう》疑いのないところ、若松屋の若者こそ、甚だ怪しい、篤《とく》と吟味を致さねばならぬ」
「引捕えてこれへおつれあらば、拙者から懲《こ》らして済むものならば懲らしめ、意見して追い放すべき者ならば、意見を加えてみるも苦しうござらぬ」
「しからばその者を引捕えて、これへ連れて参ろう」
 役人や手先が立ち上った時に、兵馬はふと、何事か胸に浮んだらしく、
「お待ち下さい、なんにせよ、承れば年若の者、無下に恥辱を与えるも不憫《ふびん》ゆえ、拙者これより同道致し、穏かにその者に会うてみたい」
「それは御随意」
 兵馬は身仕度をして、わが変名の変名を名乗る若者の、何者であるかを見定めようとしました。
 若松屋の一室に和田静馬と名乗ったお松は、非常の覚悟をしています。
 和田静馬の名は、或る時において兵馬が仮りに名乗る名前でありました。お松はその名をこの場合に利用したことが、こんな風に喰い違ったことを知ろうはずがありません。
 再び役人の来るべき時を予想して待っていると役人は来ないで、障子の外に人の気配がしたかと思うと、密《そっ》とそこを開いて、
「御免なさいまし」
 小さい声で言いながら面《かお》を出したのは、思いきや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でありました。
「…………」
 お松は呆気《あっけ》に取られていると、
「また参りました」
 来なくてもよい男であります。お松は苦《にが》りきっていました。
「また参りましたのは、大変が出来たからなんでございます。大変というのは、わたしどもの方の大変ではございません、あなた様の方の大変なのでございます、そのあなた様がこうして落着いておいでになる気が知れません、一刻も早くこの場をお逃げ出しになりませんと、命までが危のうございますよ。それで、わたしどもがまた迎えに上ったんでございます。早くお逃げなさいまし、わたしと一緒にこの宿屋をお逃げなさいまし、取る物も取り敢えずお逃げなさらなくてはいけません。第一お関所破りだけで、命と釣替《つりかえ》がものはあるんでございますから、是が非でも逃げなくてはなりません、さあ、お逃げなさいまし」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は執念深くお松を連れ出しに来たものとも思えるし、また一種の親切で逃がしに来たものとも思われるのであります。けれどもお松は、さすがにこの男の言いなりにそれではと言って、逃げ出す気にはなれないでいると、
「何を考えておいでなさるんでございます。実はこういうわけなんでございます、あなた様が、この宿屋へ駒井能登守様の御家来だといってお泊りなさっていると、丁度本陣の方へ、その本物の能登守様の御家来が、ちゃあんと着いておいでなさるんだ、役人から、あなた様のお話を聞いて、能登守の家中に左様な者があるとは訝《おか》しいとあって、今こちらへ調べにおいでなさるところなんでございます、それにつかまって御覧《ごろう》じろ、退引《のっぴき》がなりません、それを聞き込んだから、わたしはこうして抜けがけをして御注進に上ったわけなんでございます、悪いことは申し上げません、ともかくもこの場だけは外さなければ、あなた様の動きが取れません、決して悪いことを申し上げるんではございません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われてせき立てられてみると、お松の心が動かないわけにはゆきません。どのみち危ない道を踏んだ以上は、手を束《つか》ねて捕われの身になることもいやです。所詮《しょせん》、死を決したからには、逃げられるだけは逃げた方が怜悧《りこう》ではないかとさえ思われるのであります。しかし、人もあろうに、この男の手引で夜分逃げ出すということは、いくらなんでも、まだその気にはなれないでいるところへ、表の戸をドンドンと叩いて、
「先刻、お尋ねした和田静馬殿にお目にかかりたい」
 それは紛れもなき役人たちの声であります。お松はこの声を聞くと、さすがに狼狽《うろた》えて立ちかけたところを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はその左の手でお松の手首をとって、
「逃げなくちゃいけません、お逃げにならなくちゃ損でございます、馬鹿正直も時によりけりでございます」
 早や表の方では、役人たちが案内されてこっちへ来る足音が聞えます。お松は我を忘れて大小を抱えると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くもお松の荷物を取って肩にかけていて、再びその手を取って、引きずるように廊下へ飛び出しました。
 事の急なるがためにお松は、心ならずも、がんりき[#「がんりき」に傍点]に引摺られるようにして、この家を外に飛び出しました。
 外に出て見ると外は真暗です。その真暗な中を、がんりき[#「がんりき」に傍点]は案内を知っていると見えて、お松の手を引きながらズンズンと進んで行ったが、
「誰だッ」
 途中で不意に異様な声を立てて、お松の手を放してしまいました。
「ア痛ッ」
 最初、誰だッと言った時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]は何者にか一撃を加えられたようでありましたが、二度目にア痛ッと言った時には、たしかに大地へ打ち倒されていたものであります。
「うーん」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]が地上で唸っているのを聞けば、打ち倒された上に、手強く締めつけられているもののようでありました。さては役人の手が、もうここまで廻っていたかとお松は驚いて、木蔭に身を忍ばせました。それにしても不思議なのは、もし役人であるならば、御用だとか、神妙にとか言葉をかけて打ってかかるべきはずであり、なにも、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人だけを狙
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