しょう」
 こう言って坊主沢を左に切れて、傍道《わきみち》へ入りました。少年もまた、同じようにしないわけにはゆきません。
 なるほど、それは八州の役人らしい。幸いにしてこの役人たちは、いま横へ切れた二人の姿を見咎《みとが》めもしませんで、やはり雨の中を粛々として甲州の方へ向けて下りて行くのは、何か大捕物でもあるらしき気配であります。
「どうも危ねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその横道を先に立って行きました。これは多分、天目山の方へ行かるべき路であろうと思われます。
 八州の捕方《とりかた》を避けて横道につれ込まれた少年は、この案内者に相当の信用を置いているらしいが、気味の悪い感じも相当に伴わないではありません。しかしどこまでも弱味を見せないつもりで、それに従って行くと、さして大木ではないけれども、杉の木立の暗い細道へかかりました。
 その杉の木立の中に、山神の祠《ほこら》といったような小《ささ》やかな社のあるのを指して、
「あれで暫らく休んで参りましょう、どのみち本道へかからなくてはなりません、そのうち雨も歇《や》むことでございましょう」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が先に立ってその祠の縁へ腰をかけ、
「ずいぶんお疲れなすったことでございましょうねえ」
「いいえ、それほどに疲れはしませぬ」
と言ったけれども少年は、かなりに疲れているらしくありました。
「なにしろ、お若いに一人旅ということはなさるものではございません、あなた様が男でいらっしゃるからいいようなものの、もし女でもあって御覧《ごろう》じろ、道中には狼がたくさんいますからな」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われた時に、少年はギクッとしたようでした。そう言ったがんりき[#「がんりき」に傍点]自身もまた、妙に気がひけたらしく、
「狼、狼といえば、この山にはほんものの狼がいるんでございます、そう思うと何だか急に気味が悪くなって来た」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、わざとらしい身ぶるいをして前後を見廻しました。前後は杉の木立で、足下では沢の水が淙々《そうそう》と鳴って、空山《くうざん》の間に響きます。
 少年は、なんとなし居堪《いたたま》らないような心持になって、
「ともかく、本道へ戻ろうではござりませぬか」
「まあようござんす、まあ休んでおいでなさいまし、どんなことをしたからと言ったって、日のあるうちに越せねえ峠じゃあございませんや、八州のお方が立戻ってでも来ようものなら、今度はちょっと抜け道がねえのでございます、もう少し休んでいらっしゃいまし」
と言いながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]は少年の手首をとりました。
「あれ――」
 少年は思わずこう言って叫びを立てました。
「そんなに吃驚《びっくり》なさることはござんすまい、お武家様、あなたは男の姿をしておいでなさるけれど、実は女でございましょう」
「左様なものではない」
「いけません、わっしは道中師でございます、旅をなさるお方の一から十まで、ちゃあんと睨《にら》んで少しの外《はず》れもないんでございますから、お隠しなすっても駄目でございます」
「隠すことはない」
「それ、それがお隠しなさるんでございます、あなた様は女でないとおっしゃっても、これが……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその片手を伸べて、乳のあたりを探るようにしましたから、
「無礼をするとようしゃはせぬ」
 少年はツト立ち退いて刀の柄《つか》に手をかけました。がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれを驚く模様は更になく、
「ははは、たとえあなた様が男でござりましょうとも、女でいらっしゃいましょうとも、それをどうしようというわっしどもではございませぬ、御安心下さいまし。しかし、こうしてお伴《つれ》になってみるというと、その本当のところを確めておいておもらい申さぬと、臨機のかけひきというやつがうまくいかねえんでございますから」
「もう、雨も小歇《こや》みになった様子、早く本道へ戻りましょう」
「まあ、もう少しお休みなさいませ。いったい、あなた様は女の身で……どうしてまた、わざわざ一人旅をなさるんでございます、それをお聞き申したいんでございますがね。次第によっては、これでも男の端くれ、ずいぶんお力になって上げない限りもございません」
「さあ、早くあちらへ参ろう」
「まあ、よろしいじゃあございませんか、私がこうしてお聞き申すのは、実は、あなた様をどこぞでお見受け申したことがあるからでございます」
「えッ」
「たしか、あなた様を甲府の神尾主膳様のお邸のうちで、お見かけ申したことがあるように存じておりまする」
「知らぬ、知らぬ」
「あなた様は知らぬとおっしゃいますけれど、私の方では、あなた様の御主人の神尾様にも御懇意に願っておりまするし、それから、あなた様の伯母さんだかお師匠さんだか存じませんが、あのお絹さんというのは、かくべつ御懇意なんでございます、間違ったら御免下さいまし、そのお内で、たしかお松様とおっしゃるのが、あなた様にそのままのお方でございましたよ」
「どうしてそれを」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と言ってお聞きになれば、あなた様のお近づきの人はみんな、なるほどと御承知をなさるでございましょう」
「ああ、それではぜひもない」
 少年はホッと息をついて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を見ていたが、遽《にわ》かに声も言葉も打って変り、
「いかにも、わたしが神尾の邸におりました松でござりまする、こうして姿をかえて邸を脱《ぬ》けて出ましたのは、よくよくの事情があればのこと、どうぞお見のがし下さいませ」
「それそれ、それで私も安心を致しましたよ、神尾様のお身内なら、なんの、失礼ながら御親類も同様、これから、お力になってどこへなりと、あなた様のお望みのところへ落着きあそばすまで、このがんりき[#「がんりき」に傍点]が及ばずながら御案内を致しまする」
「なにぶん、お頼み致しまする」
 なにぶん、頼んでいいのだか悪いのだか知らないが、この場合、お松はこう言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]に頼みました。
「ようございますとも。さあ、そう事がわかったら、こんな窮屈なところに長居をするではございません、本道をサッサと参りましょう」
 それから後は存外無事でありました。無事ではあったけれども、こんなに見透《みすか》されてしまった上に、これが肩書附きの人間であることがわかってみれば、決して気味のよい道づれではありません。
 しかし、こうなってみると、急にこの気味の悪い道づれと離れることもできないで、お松は笹子峠を越してしまいました。
 何事か起るべくして、何事も起らずに峠を越してしまいました。人にも咎《とが》められず、狼にも襲われることがありませんでした。ただこの道案内であり道づれである男が、かえって追手の者よりも恐ろしいものであり、或いは狼よりも怖《こわ》いものであるかどうかは、まだわからないことです。
 そうして黒野田の宿《しゅく》へ無事に着いて、まだ二三駅はらくに行ける時刻であったけれども、そこでひとまず泊ることになりました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がお松を案内したのは、前の本陣の宿ではなく、林屋という宿でありました。
 ここへ着いての思い出は、お松にとって少なからぬものがあります。ここの本陣へ駒井能登守と共に泊り合せた一夜の出来事は、鮮《あざや》かにその記憶に残っているのであります。
 お師匠様のお絹がここで何者にか浚《さら》われて大騒ぎを起しました。狼も棲《す》むというし、天狗も出没するという、このあたりに来た時は、あんなことがあり、帰る時にこんなことになって、剣呑《けんのん》な道づれに案内されて同じところの宿へ泊るというのも、お松にとって心強いものではありませんです。
 ところが、この宿へ着いて旅装を解くと、まもなくがんりき[#「がんりき」に傍点]の姿が見えなくなってしまいました。お松は心には充分の警戒をして、万一の時は身を殺してもと思っているのですけれども、その警戒の相手が不意になくなってみると、なんとなく拍子抜けのようでもありました。いく時たっても、がんりき[#「がんりき」に傍点]は帰って来ませんでした。ついに夕飯の時になって見ると、その食膳は一人前であります。
 これを以て見れば宿でもまた、自分に連れのあることは認めていないものと見なければなりません。またお連れ様はとも尋ねてみないことを以て見れば、この宿では全然、自分に連れのあったことをさえ想像していないらしくあります。
 お松は合点《がてん》のゆかないことに思いながらも、食事を済ましてしまいました。
 日が暮れても、風呂が済んでも、いよいよ寝る時刻になっても、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]は姿を見せないのであります。
 お松はそれを合点がゆかないことに思ったけれども、また多少安心をする気にもなりました。なぜならば、あんな気味の悪い男に導かれて行くことの不安心は、慣れぬ一人旅をして歩く不安心よりも、一層不安心であるからです。
 前途はとにかく、あの男と離れたことが、かえって幸いであったと、寝床に就いた時分にホッと息をつきました。
 お松がこんな装《よそお》いをしてまで、甲府を逃れ出さねばならなかった理由は、全くあっちでは行詰《ゆきづま》ってしまったからであることは申すまでもありません。内には神尾の圧迫があり、外には筑前守へ奉公の強要があり、自分としては兵馬やお君の事が気にかかり、能登守の運命にも同情したり、主人の神尾の挙動には、身ぶるいするほどに怖れと嫌気とを催して、どうしても居堪《いたたま》らないから、この非常手段で逃げ出したものであります。
 兵馬が恵林寺に留まっていることがわかりさえすれば何のことはなかったろうけれど、それをお松は知ることができませんでした。ただこうして行くうちに、兵馬の行方《ゆくえ》を知る由もあろうかと思い、それがわからぬ時は、いっそ、江戸へ出て、外《よそ》ながら能登守やお君の身の上について知りたい、また例の与八という男の許をも尋ねてみようかというような心持でありました。
 その翌日、早朝に宿を出立すると、どうでしょう、阿弥陀《あみだ》街道の外れへ来た時分に、もうそこに、旅の装いをして、がんりき[#「がんりき」に傍点]がちゃあんと待っているではありませんか。もっとも今日は雨が降りません。がんりき[#「がんりき」に傍点]が待っていたのは、阿弥陀街道を過ぎて、笹子川の橋詰のところであります。
 お松も、はじめはそれとは気がつきませんでした。近寄って見た時に、それと知ってギョッとしました。
「お早うございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は挨拶をしました。
「これは、まあ」
と言ってお松は呆気《あっけ》に取られました。
「お待ち申しておりました」
 この分では、この男に見込まれたようなものだ。
「昨夜はどこへお泊りなさいました」
とお松は尋ねました。
「ツイこの近いところに知合いがあるんでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれだけしか答えません。お松もその上は問うことをしませんでしたが、どうしてもこの男の道づれを断わるわけにはゆきません。
「ここは橋詰というところでございます、この次がよしケ久保と申しまして、あすこにあるのが虚空蔵《こくぞう》様で、それと違ったこっちの方に毒蛇済度《どくじゃさいど》の経石《きょういし》というものがございます、それから白の原に白野、天神坂を通って立川原へ出て橋を渡ると神戸《ごうど》、それから中初狩に下初狩、上花咲に下花咲、大月橋を渡って大月」
 こんなことを言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は細かな道案内をしながら歩いて行きます。暢気《のんき》に歩いて行くようだけれども、絶えず往来と前後とに気を配っていることは、お松が見てもよくわかります。ことに前後から来る人の容貌を遠くから見定めようとすることと、通りすがる人を横目に見やる眼つきなん
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