えの者は、いつもするように上役に対する礼儀を尽して能登守を迎えました。これは今日に始まったことではないけれど、なぜか能登守はこの時に胸騒ぎがしました。一種の不安な気持がヒヤリと能登守の胸を刺して、玄関の大障子に何か暗い色が漂うているように見えたから、それで能登守はなんとなく胸騒ぎがしたのであります。
 思い返してみるとその不安は、今朝に限ってお君の姿を見せなかったことから起る心配の変形であると弁解ができないではありません。ああ、出がけに一度、お君の病状を見舞ってやればよかった、今日はここへ医者も詰めているはずだから、それを急に見舞に遣《つか》わそうというようなことを思いながら、能登守は刀を提げて大広間へ進み入ると、五百人足らず集まった勤番のいずれもが能登守に対して、上役の出席という敬意を表したけれども、その席の上のいずれかに、やはり冷たい色が漂うように見えて、まだ能登守の胸騒ぎが止まりませんでした。
 これより先、この席の一隅で問題になっていたものがあります。それは一つの壊《こわ》れた赤い提灯であります。
 その提灯は壊れた上に、大半は焼けてしまっていました。それを手から手に渡して、し
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