《ねら》わないで、当の自分にも、言葉がかかりそうなものです。それを不意に闇の中から出て、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人だけを打ち倒したのはどういうつもりであるか、さっぱりわかりません。
「覚えてやがれ」
 ややあって、こう言ったそれは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の声でありました。それは少しばかり遠いところへ離れて聞えました。大地へ打ち倒されたのがどうかして起き上って、命からがら逃げ出した捨台詞《すてぜりふ》のように聞えて、それから後は静かになりました。お松は身体を固くして木蔭に隠れていると、
「もしもし、若いお武家」
 それは聞いたような声であります。聞いたような声で、たしかに自分を呼ぶのだとは思いましたけれども、お松はこの場合に咄嗟《とっさ》に返事をすることができませんでした。それ故になおも身を固くして木蔭にひそんでいると、どうやらその者が自分に近く探り寄って来るらしくあります。
 お松はそれで身構えをしました。がんりき[#「がんりき」に傍点]をさえ取って押えるくらいの者に、自分が身構えをしたところで甲斐のないこととは思ったけれど、それでも身構えをしていると、その者はすぐ
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