して悪いことを申し上げるんではございません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われてせき立てられてみると、お松の心が動かないわけにはゆきません。どのみち危ない道を踏んだ以上は、手を束《つか》ねて捕われの身になることもいやです。所詮《しょせん》、死を決したからには、逃げられるだけは逃げた方が怜悧《りこう》ではないかとさえ思われるのであります。しかし、人もあろうに、この男の手引で夜分逃げ出すということは、いくらなんでも、まだその気にはなれないでいるところへ、表の戸をドンドンと叩いて、
「先刻、お尋ねした和田静馬殿にお目にかかりたい」
 それは紛れもなき役人たちの声であります。お松はこの声を聞くと、さすがに狼狽《うろた》えて立ちかけたところを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はその左の手でお松の手首をとって、
「逃げなくちゃいけません、お逃げにならなくちゃ損でございます、馬鹿正直も時によりけりでございます」
 早や表の方では、役人たちが案内されてこっちへ来る足音が聞えます。お松は我を忘れて大小を抱えると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くもお松の荷物を取って肩にかけていて、再び
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