二度呼び留めましたけれども、馬子はやはり聞かないふりをして行ってしまいます。役人はあとを追っかけて来るかと思うと、それっきりなんの音沙汰もありませんでした。だからお松の乗った馬は、無事に渡し場を越えて上野原の宿へ入りました。
 ここで若松屋という宿屋へ、この馬子によって案内されました。これから江戸へ行くまで、放したくない馬子だと思いました。けれども、そういうわけにはゆかないから、お松はこの馬子に定めの賃銀と若干の酒料《さかて》とを与えて、自分は、また一人で心細い宿屋の一室へ隠れるようにしています。
 さてこうしてみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことが思い出されます。あの馬子の面《かお》を見て逃げた狼狽さもおかしいけれど、それっきりで出て来ないという男ではないはずであります。馬子を帰してしまってこれからの道も心細いが、またあの男に出て来られることも気味が悪い。お松がその両方を考えているところへ、
「お客様、まことに恐れ入りまする、八州様の御用が参りました」
「八州様の御用とは?」
「この辺をお見廻りのお手先でございます」
「役人に調べられるような筋はないが」
「さあ、どういうわ
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