離れたところへ大きなものが一つ現われました。
「こんちは、ずいぶんいい天気でございますねえ」
その大きなものは、米友とかなり隔たったところにいながら、こう言って米友に挨拶しました。
「いい天気だよ」
米友もまた仏頂面《ぶっちょうづら》で返事はしましたけれども、その大きな物体を、なんとなく間抜けた男だと思わないわけにはゆきません。なぜならばその大きな男は、牛みたような体格をしている上に、面《つら》つきがいかにも暢気《のんき》らしく、その上に、自分でいい天気だと言いながら、この昼日中のいい天気に、松明《たいまつ》の大きなのに火をつけて携えているのですから、かなり間抜け野郎だと米友は見て取ってしまいました。
なおその上に間抜けなことは、背中に大きな石地蔵を一つ背負《しょ》っていることで、それを背負ってウンウン唸りながら、ここまで登って来たと思われる御苦労さであります。
「こんちは」
その大きな物体は、今、背中の石地蔵を作事小屋の中へ運び入れて、台の上へ寝かしておいてから、額の汗を拭き拭きまた米友の前へ来て、二度目に、こんちは、と言いました。
「こんちは」
米友もまた妙な面《かお》をして、この男に挨拶を返しました。
「お前さんは、この峠をお通りなさるのは初めてでござんすべえ」
と間抜けた男がニコニコしながら、米友にこう言いました。
「ああ、初めてだよ」
「だからお前さん、猿におどかされなすったのだ」
「ほんに憎い畜生よ」
米友の余憤は容易に去らないのであります。
「何か猿が悪戯《いたずら》をしましたかね」
「俺《おい》らがここに置いた、胡麻《ごま》のついた握飯《むすび》を盗んで行きやがった」
「それをお前さんが調戯《からか》いなすったんでございましょう。だから猿がああして、仲間をつれて来て嚇《おどか》すんでございますよ」
「人をばかにしてやがる」
「ナーニ、猿だってそんなに悪い者じゃありましねえよ」
この男は、なにげなき体《てい》でニコニコしていることが、米友には幾分か癪にさわらないではありません。この米友をさえ怖れなかった猿どもが、この間抜けた男が来たために逃げ出したとすれば、米友の沽券《こけん》にかかわらないという限りはない。米友は自分の実力でこの猿どもを懲らすことができないで、外来の人から追っ払ってもらって、それでようやく危急を逃《のが》れたというように見られることは心外でしょう。それですから米友は、よけいなお世話と言わぬばかりの面をして、大きな男を睨めました。
「猿を追っ払うには、力ずくではいけねえのでございますよ。初めての人は、この松明《たいまつ》がいちばんいいのでございますよ、松脂でもいいのでございますよ、猿は人間よりか火の方を怖がりますから、こうして火を持って歩くと、傍へ寄れねえのでございます。だからここを通る旅の人は、みんな松明を用心しているのでございますが、お前さんはそのことをお知りなさらねえから、それで猿がああして集まって来たのでございましょうよ」
「なるほど」
この説明を聞いて米友は、なるほどと合点《がてん》しました。これによって見れば猿が逃げたのは、自分の実力よりもこの大男の実力を怖れたからではなく、全く火を持っているのといないのとの相違で、人物の如何《いかん》にはかかわらないのだという保証がついたようなものだから、それで米友はいくらか安心しました。そうしてみると、このよい天気に松明をつけて来たということが必ずしも間抜けではなく、それを間抜けと見た自分の無智であるということを悟らないわけにはゆきませんでした。そう悟ってみると、この男がいま背中へ背負《しょ》って来た大きな石の地蔵尊に、大した重味があることに気がついて、どこから背負って来たか知らないが、ともかく、この石の地蔵尊を背中につけて、この難渋な峠を登りつめたものとすれば、この大男の力量の測り知るべからざることに、今となって舌を捲かないわけにはゆかないのであります。
「こりゃなにかえ、お前が、この地蔵様をなにかえ、下から背負い上げたのかえ」
「エエ、左様でございますよ」
「一人で背負い上げたのかえ」
「エヘヘ」
「うーん」
米友は唸《うな》って、その地蔵様と大男とを見比べました。米友は四尺足らずの精悍《せいかん》な小男であるのに、その男は牛のような大男で、それで年は自分と同じぐらいに見れば見られないこともないので、まだ前髪があるといえばあるのであります。
米友も、自分の力においては自負しているところがあるつもりだけれど、この地蔵様を背負って、この六里の嶮道を越えるということは、残念ながら覚束《おぼつか》ないことであります。第一、自分の身の丈が許さないのであります。それですから、
「うーん」
と唸って、大男の面《かお》を見つめていました。
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