その当座閉門同様です。なんでもあの席から帰ったあとへ、若年寄からの伝達があって、不日、能登守は江戸へ呼びつけられるのだということです。
それでいま頻《しき》りに邸内の整理をし、暇を遣《つか》わすべき家来たちには暇を遣わし、引次ぐべき事務は引次ぎ、邸外へ送り出すべき荷物は毎日送り出して、頻りに始末を急いでいるのだということであります。それで、いよいよひっそり[#「ひっそり」に傍点]している邸内の模様にひきかえて、外の評判は刻一刻に高まって行くのでありました。その評判を煽《あお》るのは神尾主膳の一派であるらしく、汚らわしい者を妾にかかえたのみならず、破牢の罪人を隠匿《かくま》って逃がしてやったり、甚だしいのは盗賊を出没させて城中城下から金を盗ませ、それをひそかに蓄えて、他日この甲府を根城に、事を起す時の軍用金として準備しているというようなことまで言い触らす者があります。
神尾主膳は、あれだけでは飽き足らないで、あらゆる流言を放ってこの機会に、駒井能登守というものを士民の間の憎悪《ぞうお》と怨府《えんぷ》とにしてしまおうという策略のように見えました。
この策略が図に当って、駒井能登守は逆賊の片割れであり、屠者賤民の保護者であるように思われてきました。
能登守の邸の中へ、外から石が降りはじめたのは、いくらも経たないうちのことであります。その石の雨が一晩毎に殖《ふ》えてゆきました。それでも能登守の屋敷内はなぜかひっそり[#「ひっそり」に傍点]したものでありましたから、いい気になって石の雨が昼も邸の中へ降って来る有様とまでなってしまいます。
夜はようやく人が出て面白半分に石や瓦を投げ込むのであります。そうして聞くに堪えない罵詈讒謗《ばりざんぼう》を加えては哄《どっ》と鬨《とき》の声を揚げる有様は、まるで一揆《いっき》のような有様でありました。
しかし、遠巻きにしてこんな乱暴を加えるだけで、誰も近づいては来ませんでした。それはこの邸には大砲というものがあるし、また主人の能登守は無双の鉄砲上手であるということが、怖れの重《おも》なる理由であるらしい。
そうしているうちにある日、駒井家の門が八文字に開きました。そこから威勢よく馬を乗り出したのは、例の通り筒袖の羽織に陣笠をいただいた駒井能登守でありました。
それに従うた家来が十人ばかり、いずれも徒歩《かち》でありました。この一行は勢いよく表門を乗り出して、八日市通りを東に向って練り出しました。
それと気のついた者は早くも立ち出でて、
「御支配が江戸へお引上げになる」
といって騒ぎました。騒いだけれども、一行の威風に呑まれて、夜陰《やいん》屋敷へ来てするように罵ったり、石を投げたりする者はなく、ただ一種異様の眼を以て見送っているうちに、馬蹄《ばてい》の音は消えて、一行は早くも甲府の城下を去ってしまいました。
一行の姿が見えなくなってから、また噂は喧《かまびす》しくなりました。
ああしてこの甲府から引上げた能登守は、問題のあの身分ちがいのお部屋様というのを、どう処分なされたのだろうということが評判の種とならずにはいません。
そのうちに恐ろしい噂が立ちました。
それはお部屋様のお君が自害してしまったという噂と、殿様のお手討に遭《あ》ってしまったという二説であります。自害説よりは、お手討説の方が有力でありました。
駒井能登守はその立退きに当って、寵愛のお君の方を斬って二つにし、井戸へ投げ込んで立去られたと、見て来たように言う者もありました。そうではない、家臣の者がお君の方を刺し殺して、井戸へ投げ込んで引上げたのだという者もありました。
ともかく、すべての者にお暇が出て、そのうちの一部の者は殿様がつれてお引上げになるうちに、ついにお君という女がどうなったかは、誰もその行方《ゆくえ》を知るものがありません。ことにその行方を知りたがって細作《しのび》をこしらえておく神尾派の者までが、ついにその消息を知ることができませんでした。
総て知りたがっていることがわからないのだから、それでさまざまの揣摩《しま》と臆測とが、まことのように伝えられて来るのはもっとものことであります。
そこで駒井能登守の屋敷は実際上の明家《あきや》となってしまい、筑前守の手に暫らく預かることになりました。二三の番人が置かれることになったけれども、その番人が夜になると淋《さび》しがってたまりません。
「お化けが出る」
という噂が、またパッと立ちはじめました。そのお化けを見たものがあるのだそうです。一人や二人でなく、幾人もそのお化けをみたという人が出て来ました。
その説明によると、お化けは若い美しい凄いお化けで、手に三味線を持っているということです。
それが肩先を斬られて血みどろになって、井戸の中から出て来
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