て、屋敷をさがし歩いては泣くということであります。
人の口《くち》の端《は》というものは、それからそれと枝葉が出るもので、能登守が馬に乗って門を出た時に、若い女の姿が真白な着物を着て、烟のようになって、能登守の馬のあとから追って行ったのを見たという者まで出ました。
その当座は、またまたその噂で持切りで、能登守の屋敷あとは、金箔付の化物屋敷にされてしまい、そのお君の方を斬り込んだと伝えられる井戸は固く封ぜられ、ついにはその屋敷の前を通る者さえ少なくなりました。
宇治山田の米友がこの噂を聞いたらどうだろう――そう言えば、袖切坂下で下駄を持ちあつかったあの男は、今どうしている。
六
わが親愛なる宇治山田の米友は、袖切坂で拾ったお角の下駄を持ちあつかって、一里の間も二里の間も持ち歩いていました。
いつまでもその下駄を持って歩いたところで仕方がないから、ついに笛吹川の上流にあたって、とある淵の中へ思い切ってその下駄を投げ込んでしまいました。
それから米友は大菩薩峠を登りにかかりました。
例の跛足《びっこ》を俊敏な体と手慣れた杖とに乗せて、苦もなく峠を登って、やがて大菩薩峠の頂に着きました。
頂上には妙見の社《やしろ》があって、その左の方に二間に三間ぐらいの作事小屋《さくじごや》があります。
「やれやれ」
作事小屋には、誰か仕事をしかけて置いてあるらしく、切石がいくつも転がって、石鑿《いしのみ》なども放り出されてありました。
石工《いしく》の坐ったと思われるところの蓆《むしろ》の上へ米友は坐り込んで、背中の風呂敷から、お角の家でこしらえてもらった竹の皮包の胡麻《ごま》のついた握飯《むすび》を取り出して、眼を円くしていましたが、やがてパクリと一口に頬張りました。
握飯は大きなのが五つ拵《こしら》えてありました。それですから米友が、いま一つ頬張ってムシャムシャ喰っていると、竹の皮包の中には四つ残るのであります。
その大きなのを一つ食べてしまってから、米友は峠の下から汲んで来た竹筒の水を取って飲みました。それからまた握飯を一つ取って頬張りました。それを食べてしまうと、また竹筒の水を取って飲みました。三つ目の握飯を米友が食べてしまった時に、惜しいことには竹筒の中の水を飲みつくしてしまいました。これは握飯の塩が利き過ぎていたせいか、或いは米友の咽喉が乾き過ぎていたせいか知らないが、ともかく、米友としては少し飲み過ぎた傾きがないではありません。
胡麻のついた握飯は、まだあとに二個残っているのであります。それだのに水は早や尽きてしまいました。それは米友でなくても、山路を旅して腹の減った時分に、握飯を噛《かじ》るほどおいしい[#「おいしい」に傍点]ものはおそらくこの世になかろうはずのものであります。まして小兵《こひょう》ながら健啖《けんたん》な米友が、この場合に五箇《いつつ》の握飯を三箇《みっつ》だけ食べて、あとを残すというようなことがあろうとも思われませんのです。けれども水は尽きてしまいました。
「ちょッ、水がなくなってしまやがった」
しばらく思案していた米友は、さいぜん登って来る路のつい近いところで、水の流れる音を聞いたことを思い出しました。それを思い出すと竹筒を取り上げて、杖なしで、さっさと峠道を少しばかり下りて行きました。それは竹筒へ水を汲まんがためであることは察するまでもありません。
この小説の、いちばん最初の時に、巡礼の姿であったお松という少女が、これと同じようなことを、これと同じところで繰返していたのであります。その時の少女は、老人の巡礼につれられていましたけれど、今の米友はたった一人であることと、その時のお松は瓢箪《ひょうたん》へ水を汲みに行ったけれど、今の米友は竹筒を持って行ったことが、違えば違うようなものです。
曾《かつ》てお松が、この下の黄金沢《こがねざわ》の清水を瓢箪に満たして、欣々として帰って来たその間に、連れの老巡礼は見るも無惨な最期《さいご》を遂げていました。
それらの出来事は、いっこう米友の知ったことではありません。米友もまた、期せずして前にお松が汲んだろうと思われるあたりの沢の清水を竹筒に満たして、欣々として、もとのところへ帰って来たけれど、そこにはなんらの意外な変事も起っていた模様も見えません。
「おや」
なんらの変事もないと思ったのは、米友がこの峠を初めての旅人であったからであります。竹筒を持って作事小屋の中へ入った時までは気がつかなかったけれど、そこへ来て見ると、今の米友にとってはかなり重大な変事が起っていることを知りました。
「握飯《むすび》がねえや」
五箇《いつつ》の握飯のうち三箇を食べてしまって、あと二箇を残しておいたことは紛れもなき事実であります。
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