、そのほか集まる人々がおおかた席を退いたけれども、駒井能登守は柱に凭《もた》れ腕組みをして俯向《うつむ》いていました。
 すべての人が席を退いたあとで、能登守はそこを立ち上りました。その時に面色《かおいろ》は蒼ざめていました。足許がよろよろするのを、辛《かろ》うじて刀を杖にして立ったように見えました。さすがにこの人とても非常なる心の動揺を鎮めるのに、多少の苦しみを外へ現わさないではいられないのでしょう。それでも玄関へ出た時分には、なにげない面色で家来たちを安心させました。お供の家来たちは、不幸にして主人の受けた恥辱と、その心の中の苦痛を知らないのであります。
 こんなわけで、能登守の乗物は無事に邸へ帰るのは帰ったけれど、その時になって大きな騒ぎが起りました。主人が御番所において受けた容易ならぬ恥辱を、お供の者が知らない先に、邸へ知らせたものがありました。そこで家老とお供頭《ともがしら》との間に、烈しい口論がありました。口論ではなく家老がお供の者たちを罵《ののし》って、
「腰抜け! たわけ者! ナゼその場で神尾主膳を討って取らぬ、その場で討つことが叶《かな》わずば、途中においてナゼ神尾主膳の同列へ斬り込んで討死をせぬ、よくもおめおめとお供をして帰って来られたものじゃ」
 家老のお叱りにあって、お供の者は一言もないのであります。家老のお叱りそのものが何を意味するのだかを合点することができませんでした。
 これは無理のないことで、たとえば毒を飲まされた時に、飲まされた当人が黙って堪《こら》えている以上は、外から見て、その苦痛や惨烈の程度がわからないのはあたりまえのことであります。
 駒井家の邸内は沸騰しました。これから神尾主膳の邸へ斬り込まんとする殺気が立ちました。それを厳しく押えた能登守は、追って自分の沙汰《さた》するところを待てと言って、例の研究室へ入ってしまいました。その邸内がこんなに混雑したのみならず、この噂は城下一般に燃え立ちました。駒井能登守の家来が、今にも神尾主膳の屋敷へ斬り込んで来るという噂が立ちました。神尾の屋敷では、それこそ面白い、そうなれば能登守が恥の上塗り、見事、斬り込んで来るなら来てみろという意気込みで、人を集めて待ちうけました。
 その附近の家々では家財道具を押片附けて、今にも戦争が始まるかのように慌《あわ》てるものもありました。しかし、その形跡がないうちに、またも噂が立ちました。
「駒井能登守が自殺した」
という噂が立つと、神尾家の者共は、それ見たことかと得意満面でありました。まもなく自殺は嘘で、心中だ! という噂も立ちました。そうだろう、心中だろう、相手がよいからそんなことだろうと言って、また笑ったり囃《はや》したりしました。
 ところが、それらの噂はみんな嘘で、能登守は相変らず研究室へ籠《こも》って大砲の研究をしていると言うものもあって、何が何だかわからなくなりました。
 邸の中はひっそり[#「ひっそり」に傍点]していましたけれど、邸の外は囂々《ごうごう》として上も下もこの噂で持切りでありました。このことからして、能登守の信望は地を払ってしまいました。
 能登守に幾分か同情を持っている者は、お君という女が、人交りのならぬ分際の者でありながら、素性《すじょう》を包んで能登守を騙《たぶらか》し、それを窮地に陥れたことを、悪《にく》むべき女、横着の女であるとし、それをうかと信用して疑わなかったのは、つまりは能登守の宏量《こうりょう》なる所以《ゆえん》であって、罪は一《いつ》にお君にあるように言っていました。
 つまりその宏量というのは世間を知らないということで、どのみち素性を隠してお妾になろうというほどの女だから、旨《うま》い物を食って、いい着物を着せて貰いさえすれば、殿様であろうと、折助であろうと、誰でも相手にする女郎と同じことの女を寵愛してお部屋様に引上げ、それがために家門を潰《つぶ》すようなことにまでなるのは、お気の毒とは言いながら、よっぽどおめでたく出来ている殿様だと口穢《くちぎたな》く罵る者もありました。殊に例の折助社会に至っては、こんなことは待っていましたという程に喜ばしい出来事で、あらゆる醜陋《しゅうろう》と下劣の言葉で、皮肉と嘲弄の材料にしていました。
 こんな塩梅《あんばい》で、士分の間にも、町民の間にも、能登守に同情を寄せる者は一人もなくなってしまいました。内心は同情を寄せる者があっても、それを口にすると自分もまたほいと[#「ほいと」に傍点]であり賤人であるかの如くさげすまれるのが辛いから、御多分に洩れず口々に、能登守の行いを汚らわしいものとして罵っていました。見かけ倒しの惚《のろ》い殿様だといって、世間の口の端《は》に調子を合わせては笑い物にするのが多いのであります。
 能登守の邸は
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