言うことに不快を感じて座に堪えられないようなものもありました。駒井能登守は神尾にこう言われて、一時《いっとき》沈黙して眼をつぶりました。企《たく》んだな! とこう思って駒井能登守のために同情し、神尾の挙動を悪《にく》む者も少なくはありません。
確かにこれは駒井能登守が窮地に陥ったなと、予《かね》ての噂を聞いている者は、ひとごとながら見てはいられない気の毒の感じを起したものも少なくはありません。
この場合、能登守を救うのは、誰よりも先に太田筑前守の義務でなければならぬ。今まで神尾にこういうことを言わせて置いたことでさえが緩慢の至りであるのに、ここでなお黙っていて能登守の急を救わなければ、それは武士の情けを知らないのみならず、寧《むし》ろ神尾と腹を合せて、神尾をして充分に能登守を弾劾させようとする策略があると言われても申しわけがありません。それでも、やはり筑前守は知らぬまねして、神尾の一言一句にも干渉することをしませんでした。
一座は白け渡ってしまいました。その中には、眼の色を変えて能登守のために、神尾に飛びかかろうという権幕のものも見えました。また神尾の言うことを小気味よしとして、能登守が窮したのを内心快くながめている者もあるようです。
一時沈黙して眼を閉じていた駒井能登守は、やがて眼を開きました。
「神尾殿、近ごろ苦々しき噂をお聞き申す、しかしともかくそれは一大事。して左様な噂を立てられた人物というのは何者にや、してまたその人物が寵愛するという身分違いの女子《おなご》の素性《すじょう》というのはいかなる者にや、その辺を委《くわ》しくお聞き申したい、それらの者の姓名もお包みなく、これにてお明かし下されたい」
能登守の声は、少しばかり顫《ふる》えを帯びていたようであります。けれども終《しま》いはキッパリとして、神尾主膳の面を篤《とく》と見つめながら言葉も色も動きませんでした。
「それは申し上げぬが花と存じ申す。しかしながら、言い出した拙者の面目、軽々しく世上の根無《ねな》し言《ごと》を、この公けの席へ持ち出したとあっては迷惑、それ故、噂は噂として、その噂の中より拙者の見届けた真実だけを申し上げる。拙者がまだ当地へ参らぬ以前のこと、伊勢の国の大神宮へ参拝致した、その途中、かの間《あい》の山《やま》と申すところに、名物のお杉お玉と申すものがおって、三味を弾《ひ》いて歌をうたい、客の投げ与うる銭を乞うていた、そのお杉お玉両女のうち、お玉と申すのがことのほか姿容《きりょう》がよい、それによく間の山節という歌をうたい申す、拙者も旅の徒然《つれづれ》に、右のお玉を旅宿に招《よ》んで歌を聞き申した、なるほど姿は鄙《ひな》に珍らしい、その歌も哀れに悲しい歌で涙を催した。しかるに近頃思いがけなくもこの甲州の土地へ来て、全く思いがけぬところでそのお玉という女子を見申した。それはただいま現在に、この甲府でさる重い役人の寵愛《ちょうあい》を受けているということを聞いて、いよいよ思いがけない思いを致した。おのおの方、そのお玉という者をいかなる素性の女子と思召す、姿こそ美しけれ、歌こそ上手なれ、それは彼地《かのち》にてほいと[#「ほいと」に傍点]というて人交りのならぬ身分の者、一夜泊りの旅人さえも容易に相手に致さぬ者を、知らぬ土地とはいえ、この甲府へ来て、あの出世、氏《うじ》のうして玉の輿《こし》とはよく言うたもの。ただし女は出世で済まそうとも、済まぬは我々旗本の身分、ほいと[#「ほいと」に傍点]賤人を寵愛して閨《ねや》の伽《とぎ》をさせるはすなわちほいと[#「ほいと」に傍点]賤人に落ちたも同然、もし我々同族のうちに、左様な人物がありとすれば、同席さえも汚《けが》れではござるまいか。左様なことはないことを望む、左様な人物はあってはならぬけれど、左様な人物あるがために士風を汚し、庶民の侮《あなどり》を買うような仕儀に到らば打捨てては置かれまい、よし一人の私情は忍び難くとも、流れ清き徳川の旗本の面目のために……」
主膳は今日を晴れとこんなことを絶叫しました。能登守は静粛《じっ》として聞いていたけれども、座中にはもう聞くに堪えない者が多くなって、雲行きが穏かでないのを、太田筑前守が、この時になってようやく調停がましき口を利き出しました。
今ごろになって調停がましい口を利き出すなぞは、かなりばかばかしいことであります。
気の毒なことに駒井能登守は、すっかり彼等が企みの罠《わな》にかかってしまいました。ここに至るまでには一から十まで企みに企んであった仕掛を、能登守は一つも覚《さと》ることなくしてこの場に身を置くようになったのは、返す返すも気の毒なことであります。
太田筑前守は程よくこの会議を切上げる挨拶を述べ、神尾主膳は勝ち誇った態度で揚々と座を立ち
前へ
次へ
全47ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング