覚悟をしています。
和田静馬の名は、或る時において兵馬が仮りに名乗る名前でありました。お松はその名をこの場合に利用したことが、こんな風に喰い違ったことを知ろうはずがありません。
再び役人の来るべき時を予想して待っていると役人は来ないで、障子の外に人の気配がしたかと思うと、密《そっ》とそこを開いて、
「御免なさいまし」
小さい声で言いながら面《かお》を出したのは、思いきや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でありました。
「…………」
お松は呆気《あっけ》に取られていると、
「また参りました」
来なくてもよい男であります。お松は苦《にが》りきっていました。
「また参りましたのは、大変が出来たからなんでございます。大変というのは、わたしどもの方の大変ではございません、あなた様の方の大変なのでございます、そのあなた様がこうして落着いておいでになる気が知れません、一刻も早くこの場をお逃げ出しになりませんと、命までが危のうございますよ。それで、わたしどもがまた迎えに上ったんでございます。早くお逃げなさいまし、わたしと一緒にこの宿屋をお逃げなさいまし、取る物も取り敢えずお逃げなさらなくてはいけません。第一お関所破りだけで、命と釣替《つりかえ》がものはあるんでございますから、是が非でも逃げなくてはなりません、さあ、お逃げなさいまし」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は執念深くお松を連れ出しに来たものとも思えるし、また一種の親切で逃がしに来たものとも思われるのであります。けれどもお松は、さすがにこの男の言いなりにそれではと言って、逃げ出す気にはなれないでいると、
「何を考えておいでなさるんでございます。実はこういうわけなんでございます、あなた様が、この宿屋へ駒井能登守様の御家来だといってお泊りなさっていると、丁度本陣の方へ、その本物の能登守様の御家来が、ちゃあんと着いておいでなさるんだ、役人から、あなた様のお話を聞いて、能登守の家中に左様な者があるとは訝《おか》しいとあって、今こちらへ調べにおいでなさるところなんでございます、それにつかまって御覧《ごろう》じろ、退引《のっぴき》がなりません、それを聞き込んだから、わたしはこうして抜けがけをして御注進に上ったわけなんでございます、悪いことは申し上げません、ともかくもこの場だけは外さなければ、あなた様の動きが取れません、決して悪いことを申し上げるんではございません」
がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われてせき立てられてみると、お松の心が動かないわけにはゆきません。どのみち危ない道を踏んだ以上は、手を束《つか》ねて捕われの身になることもいやです。所詮《しょせん》、死を決したからには、逃げられるだけは逃げた方が怜悧《りこう》ではないかとさえ思われるのであります。しかし、人もあろうに、この男の手引で夜分逃げ出すということは、いくらなんでも、まだその気にはなれないでいるところへ、表の戸をドンドンと叩いて、
「先刻、お尋ねした和田静馬殿にお目にかかりたい」
それは紛れもなき役人たちの声であります。お松はこの声を聞くと、さすがに狼狽《うろた》えて立ちかけたところを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はその左の手でお松の手首をとって、
「逃げなくちゃいけません、お逃げにならなくちゃ損でございます、馬鹿正直も時によりけりでございます」
早や表の方では、役人たちが案内されてこっちへ来る足音が聞えます。お松は我を忘れて大小を抱えると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くもお松の荷物を取って肩にかけていて、再びその手を取って、引きずるように廊下へ飛び出しました。
事の急なるがためにお松は、心ならずも、がんりき[#「がんりき」に傍点]に引摺られるようにして、この家を外に飛び出しました。
外に出て見ると外は真暗です。その真暗な中を、がんりき[#「がんりき」に傍点]は案内を知っていると見えて、お松の手を引きながらズンズンと進んで行ったが、
「誰だッ」
途中で不意に異様な声を立てて、お松の手を放してしまいました。
「ア痛ッ」
最初、誰だッと言った時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]は何者にか一撃を加えられたようでありましたが、二度目にア痛ッと言った時には、たしかに大地へ打ち倒されていたものであります。
「うーん」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]が地上で唸っているのを聞けば、打ち倒された上に、手強く締めつけられているもののようでありました。さては役人の手が、もうここまで廻っていたかとお松は驚いて、木蔭に身を忍ばせました。それにしても不思議なのは、もし役人であるならば、御用だとか、神妙にとか言葉をかけて打ってかかるべきはずであり、なにも、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人だけを狙
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